美しさとお金にまつわる、私の中のもうひとつの真実
私は、美しさを追求してお金が積み上げられたらいいな〜、って思うのよね。
でも、私のイメージの中では「美しさを追求してもお金持ちにはなれない」という感覚がある。
「なんで?」と自分でも思うけど、自分の中では答えがわかっている。
それはこのギフテッドの記事の最初の方に、幼い私が他人から「かわいい」と言われた時に母親から嫉妬されて、そこから散々な目にあったという流れを書いていました。そこから私は「自分は醜い」と思うようになって「自分の顔を鏡で見るのも苦痛」となってしまいます。
これって「母親に嫉妬されて傷つけられたから醜いと思うようになった」という流れになりますけど、実際は「私は醜い」と思っていた方が「他人から哀れみを受ける」と私は思っている。
その「哀れみ」が「愛」になっているから「私は醜い」に執着している。
まあ、普通の人との会話でも「私は汚くて醜いんです」と伝えたら「えぇ〜!そんなことないよ〜!」と否定してくれて、哀れみの目で見てもらえる。私はそれを求めていたのかもしれない、と素直に認めてみるとなんだか私の中でスッキリする。
私の中では「醜いんです」と同じように「お金がないんです」で他人から憐れまれることが「愛」になっている。
醜くて人から忌み嫌われるような存在で、さらにはお金がなくて神からも見捨てられている存在が私。
周りの人はみんなイキイキとして美しく生きていて、神から愛されてちゃんとお金だって貯蓄しているのに、私は人からも神からも見捨てられたダメ人間、と私は思っています。
こんなことを一般の人に話すと、一般の人からは「あんたは甘えている」と叱咤されてしまいます。
一般の人は「なんで自分で美しくなる努力をしたり、お金を稼ぐ努力をしないで“神から見捨てられている”って甘ったれたことを言っているんだ!」と怒るわけです。
私はそれに対して「いや、ちゃんと努力してますって!でも、現実的に何も変わらないんです!」と言い訳をする。すると一般的な人は「はぁ〜!こいつに何を言ってもダメだ」という感じで呆れて私の前から立ち去っていきます。
いやいや、一般的な人の「甘ったれている!」というのは、間違っていないのよね。
要するに「私は世間の人から気持ち悪がられて受け入れられない」というのと「神からも愛されない」は「生まれてこなきゃよかった」となるわけです。
この私の「生まれてこなきゃよかった」にトリックがあって、それは「お母さんのお腹の中に戻りたい」となっているわけです。
もっとストレートに言ってしまうと、私が「自分は醜くて誰からも受け入れられない」とか「神からも愛されてなくてお金がない」と嘆き悲しんでいる時は「お母さんのお腹の中にいる」という状態になっていた。
私は散々「母親から傷つけられた」とか「母親は私のことを認めてくれなかった」などと怒っていますが、それがまさに「愛憎」なのよね。私の頭の中で「私のことを傷つけ受け入れない母親像」が膨らめば膨らむほど「どんな私でも癒して、受け入れてくれる母親像」も同時に膨らんで、その膨らんだお腹の中に入っていく私。
さらに面白いことを言えば、「こんな醜い価値のない私でも母親は愛してくれる」というのは、一般常識である「母親は子供を愛するもの」に沿っています。
そう、私は一般常識に縛られて「甘ったれ」と言われる世界に閉じ込められていた。常識は自分でデザインできるのに。私はこの一般常識がものすごく気に入っているらしい。
これがイエスが言っていた「人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」なんだろうな。
これを聞いた律法学者は「年をとった者が、どうして生まれることができましょう。もう一度母親の胎内に入って生まれることができるのでしょうか」ってイエスに言ったのよね。
一般常識的な人には「母親はどんな子供でも愛するもの」という常識で「お母さんの胎内に戻って母親の愛に育まれている」という美しい世界が見えなくなる。
人を恨み神を呪うことで、外の世界が恐怖と化しているのは「お母さんの胎内に戻る」をしているからなのよね。
そんなことを思った時に「そこに美しさを見出す」を心の中で唱えてみます。
すると「無力な胎児のままで美しい」って浮かんでくる。「人からも神からも愛されない」が母の胎内にいる糧となって母の美しい愛に育まれていく。
すると人から認められること、お金を積み上げることなどが全て虚しくなる。
そして、全てが虚しくなった時に、私はそこに美しさを見出したくなるのよね。
もし、私が母の胎内でその愛に育まれているのだったら何も恐れる物がないのだから。嫉妬を恐れて手加減する必要なんてなく、自由にとことんまで美しさを追求することができる。