美しさで搾取される、というイメージの正体
色々な気づきがあった後、私がとことん美しさを追求したらお金は積み上がるのか?と思っても「あれ?なんだか損ばかりしてお金持ちになれない!」というイメージになる。
「なんで?」と思ってみると「あぁ〜!父親ね!」と浮かんでくる。
私の父親はキリスト教の精神で「困っている人に手を差し伸べる」ということをやっていた。苦しんでいる人、困っている人に手を差し伸べる、がキリスト教の精神では美しい。でも、父親が困った人に手を差し伸べても、相手は感謝することなく父親から搾取して、そして後ろ足で父親に泥をかけて去っていく。そして、私の家はとことん貧乏になってしまった。
「美しさを追求する」と思うと私は父親がしていた「困っている人に親切にする」が浮かんできてしまうから、どうしても「美しさで搾取されて捨てられる」となってしまう。
実際に世の中的にも「ずるい人がお金持ちになってチャンスに恵まれ、正直者が損をする」という構図が存在している(これは私の中の構図です)。正直にそして人に親切にしていると、人から搾取されて、ものすごい損をしてそして捨てられて惨めな思いをする。
だから、美しさを追求しても人から搾取されるばかりで、何も得られず惨めな思いをするだけで自己満足の世界なんじゃないのか?と思ってしまうわけです。
でも、これも私が一般的な常識に縛られている証拠なのよね。
「人に親切にすることが美しい」って学校の道徳の時間に習ったな〜。「正直に生きることが美しい」って教わってきたな〜。これが一般人の常識であり、私はこの常識に縛られています。
「困っている人」がいたら「助けてあげなきゃ!」と思うのは「困っている人」がいたら美しくないから、助けて美しくしてあげなきゃ、と常識の中で思ってしまう。
常識の中では、間違っている醜い人がいるから、私は間違っている人と違って美しく生きなければ、となってしまう。
ある意味で私が「美しい」 or 「美しくない」を判断する審判的なことをやっていて、「美しくない」という判定を受けた人を救う神を演じることが「美しい」と私の常識の中ではなっている。ある意味、「助けてあげなきゃ」と思う私は「美の神」を演じている。
私が「そこに美しさを見出す」を唱えるのに抵抗があるのは「美の神」を私が手放すことになるから。なぜなら、私が「美しくない」と判定した中にも美しさを見出すことができてしまうから。そして「助けてあげなきゃ」と救いの美の神を演じる必要が全くなくなってしまうから。
「そこに美しさを見出す」で常識的な「美しい」 or 「美しくない」の判定が全て覆されてしまいます。
この呪文って一般的な常識から解放されるためのものなの?と思うほど、「あれ?私が醜いと思っていた中に美しさが見出せるかも」となるわけです。
これまで美の神を演じて、人を美しさに導くことが「美しい」と思っていた常識が覆されるので、美の神を演じられなくなる。
「美しい」 or 「美しくない」を判定する、そしてそれを救う美の神を演じられなくなった時に、ものすごく無防備になった感じになるのは「神」じゃなくて「人」になったから。
私は弱虫で弱者であるからこそ自分が他人の「美しい」 or 「美しくない」を判定して、それを救ってあげる神を演じる必要があった。
「そこに美しさを見出す」を唱えてみると、「美しい」 or 「美しくない」の審判の役割から解放されて、常識的な世界では見えなかった美しさを見出すことができる。
常識的な世界では見えなかった美しさを見出した時に「困っている人」はいなくなるのよね。
みんな、そこに生きていて美しい。人を恨み神を呪って母の胎内にいる私ですら「美しい」となるのは、そこに生きているから。
たくさん読んできた西洋文学の中の「美しい」がどんどん普段の生活の中で言語化されていく。すると、西洋文学を残したギフテッドたちが見ていたその世界が見えてくる。
そんな時に「うわ〜!この美しさって周りの人から理解されなかっただろうな〜」と偉人たちの苦悩が伝わってくる。それと同時に、その偉人たちは周りの人たちへ、この美しさの理解を求めることなく、美しさを探究していったからあのような文章が書けたんだろうな、と感じるんです。
そうなんだよな〜!偉人たちが長年抱えて大きくなった真珠を人々に理解してもらおうと思って彼らの目の前に置いたら、人々はそれを踏みつけるだけじゃなくて、その真珠を置いた偉人に怒って向かっていくんだろうな(イエスの豚に真珠から)。
その美しさは、誰のためにあるものでもなく、そこに無意識が働いている証拠なのかもしれない。