先日、アパートのテレビアンテナの金具が錆びて、腐ってアンテナがポールから外れて落ちてしまった(なんちゅうローカルな話題なんだ〜)。その時に「うわ〜!アンテナの留め金持っていたのに、捨てちゃったじゃない!」とものすごく後悔しちゃう。これがあるから私は、ゴミのようなモノでも捨てられなくなってしまうのよね。その時はゴミのように思えても、後になって「あれがあったら使えたじゃん!」ってなるから、どんどん私の引き出しにゴミが溜まっていきます。

 

そんなときに「あれ?もしかして捨てたから、捨てた物が美化されたのかも!」って面白いことに気づいてしまった。捨てなければ、ずっと引き出しの中に埋もれていて、その存在価値を見出せなかったけど、捨ててしまうと「あれは価値があったかも!」って美化される不思議な現象。

 

これって人の記憶もそうなのよね。学校のテスト勉強でものすごく苦しんで「もうこんな苦しい記憶はいらない!」って忘れたものに限って、後になって「あの学校でのテスト勉強は楽しかった!」と美化されていくから自分でもびっくり。憎たらしい学校の先生とか「思い出すのも嫌!」と捨ててしまったつもりだった記憶に限って、後になって「あの先生は教育熱心だったかも!」って美化されてしまう(こわ〜い!)。

 

でも、何度も思い出してしまう、子供時代にいじめられた記憶とか、人前で恥ずかしい思いをしたこととかは「全然美化されないで新鮮な不快感のまま残り続ける!」ってなるから面白い。

なぜか、私はその記憶を捨てないで大切に引き出しにしまっていて、ことがあるごとに、その引き出しのゴミを眺めて「不快!」とやってしまうから、記憶は劣化しないで不快感を新鮮なまま保ってしまう。

 

逆にこの記憶を捨ててしまったら美化されてしまって、ふっと思い出された時に「あの体験は私にとって貴重なものだった」ってなるのが怖いのかな?記憶が美化されてしまって、人を許したり、自分を許したりすることがもしかして私は怖いのかも。

こんなふうに書いてみると、私は一番自分を許してしまうのを恐れている。

 

私の記憶が美化されて自分を許してしまったら「自分は素晴らしい人間なんだ」と思い上がった勘違い人間になって、思い上がった途端に、ものすごい酷い目にあうことを私は恐れている。だから、惨めな記憶を繰り返し思い出して、不快感に浸って弱者の立場でい続けてしまう。

 

あれ?でも、どうして私は「自分はすぐに慢心してしまう人間である」と思っているんだろう?と疑問に思う。だって、これまで一度だっていい思いをしたことがない。常に惨めさと恥ずかしさでいっぱいで、慢心する隙なんて1ミリもなかった気がする。

 

そんな時に、子供の頃に母親に私がちょっとでも楽しそうにしていると「ほら!あんたはすぐに調子に乗って!」と言われていたな〜。そして、私は親から怒られて引っ叩かれない日がなかったので「私が調子に乗っていたから悪いことが起きた」となっていたのよね。

だから、常に「調子に乗ったら嫌な目に遭う」って思うようになって、ちょっとでも気分が良くなると「不快なことが思い出されて頭の中が汚物だらけになる」ってなっているんだ、と思ってみたら面白くなってきた。

 

調子に乗っていたら人から嫉妬されて潰される、と思っているけど、実際は慢心を避けて謙虚でいればいるほど嫉妬されて潰される、ということを体験してきた。そんな時も「私が調子に乗っていたからこんな嫌な目にあった」と結論づけていたな。そして、自分は慢心する人間だから、常に謙虚でなければ、と頭の中を不快な記憶でいっぱいにして美しさからかけ離れた世界で生きてきた。

 

「そこに美しさを見出す」を頭の中で唱えてみると、「不快な記憶は捨てると美化される」と思えて捨ててみたくなる。「本当に捨てたら美化されるのかな?」と半信半疑だけど、ちょっとやってみたくなる。

そして、私の不快な記憶を捨て去って、それが一つ一つ美化されていくと、なんだかバラの香りが鼻空内にしてきた気がした。

 

その香りを嗅いだ時に、自分で自分を律することは必要なくて、全て無意識に任せて私は美しさを追い求めていいんだ、と不思議な言葉が浮かんでくる。