セミナーのアーカイブを見ていて「さあ、今お話ししたテクニックを二人一組で練習をしてみましょう」と私がオンラインのセミナーで皆さんにお願いする場面がありました。そして、演習をしているところをのぞいてみると「私できません」と相手の方に言っている人がいて「が〜ん!」とショックを受けちゃう。なぜなら「私の説明の仕方が悪かったから、この人はできないんだ」と「できません」の原因を私に帰属してしまうから(帰属とは「〇〇のせい」にすることです)。その相手の方に「できません」と言っている人は決して申し訳なさそうに言っているようには見えなかったので、それをみた私は「私のことを馬鹿にしているからこの人はやらないんだ」と思ってしまう。すると「なんて失礼な人なんだ!」と私の中でその人に対して怒りが湧いてきてしまう。

 

私の中で怒りが湧いてくるのは、私自身が馬鹿にされるような存在であると思っているから。喋り方がダサい、とか説明の仕方がまわりくどい、そして言っている内容が薄っぺらくて科学的な根拠がない、と私の中では相手から馬鹿にされるような原因が万と思い当たります。私が思い当たる馬鹿にされる原因であの人は私のことを馬鹿にして「私にはできません」と言っているんだ、と私は思ってしまうわけです。

 

「できません」と開き直っている人に対して「あぁ!知的能力が足りなくて理解できなかったのね」とはどうしても思えない私がいます。なぜならば、私にとっては簡単なことで取るに足らないことだと思っているから。そして私は「このセミナーの参加者の誰よりも知的能力が低い」って思っているわけです。知的能力が低い私でもできることを「できない」というのは、原因は私にあるに違いない、と考えてしまって「この人は私のことを馬鹿にしているに違いない」でめちゃめちゃ最悪な気分になって、そこから立ち直れないような感覚になってしまいます。

 

そして私は「なんて失礼な人なんだ!」と相手のことを心の中で責めてしまうのは「私のことを馬鹿にしている」と思っているから。

 

そんなことを考えていたときに「あぁ!私も子供の頃に教師から“お前、俺のことを馬鹿にしているだろ”って授業中に椅子を投げつけられて殴られたな〜」という思い出が蘇ってきます。子供の私は「先生のことを馬鹿にしている」というつもりは全くなくて、授業中に白昼夢に入ってしまって、授業の内容が全く入って来なかっただけ。先生を馬鹿にして白昼夢に入ってしまったわけではなくて、周りのいじめっ子たちの気持ちを考えていたら、白昼夢に入ってしまって、そこから出られなくなっていた。

 

私を殴った先生からしたら「俺のことを馬鹿にしているから、一生懸命にしている説明を聞かずに授業中に他のことを考えてやがる」と思ったのか〜、と今になって理解できる。あぁ!あの先生も私と同じように「本来の自分の知能は生徒より下」と思っていたんだ。面白いな〜、って過去のことを振り返ります。あの先生、私よりも知能が低いって、思っていたんだ、と考えたらおかしくなってくる。でも、私もあの先生と同じように「セミナーの受講者の人たちよりも知能が下」って思っているから「馬鹿にされている」と被害的になってしまうのよね。

 

こんな時に「どうして自分の知能がみんなよりも下と思ってしまうんだろう?」と分析したくなる。けれどここは「そこに美しさを見出す」を唱えてみます。すると「馬鹿にする相手は美しくない」とか思うのかな?と予測していたけど、全く違っていて「私はセミナーの中で美しさを探求していたな」というのが浮かんできた。なんだか、自分では思いつかないようなその言葉にグッときた。誰にも理解されないかもしれないけど、私は確かにセミナーの前に何度も繰り返しセミナーのテキストを読み返して、美しさを探究していた。何度も頭の中で、つまずいて転んで、そして無様な状態になりながら、練習に練習を重ねて、美しさを追求していたな〜。

 

「そこに美しさを見出す」って頭の中で唱えてみると「美しさは、自分の中に見出すんだな〜」って改めて思えてくる。人のちょっとした言動で、私は美しさを人の中に見出そうとしてしまう。自分の美しさも真珠の貝のように硬い醜い殻で覆われているから、外から見たってわからない。そう、美しさは人の中に見出すものではなくて、自分の中に見出すもの。

 

そんな時に誰のものでもない喜びを感じられる。