今年はアメリカの野球が盛り上がって「すご〜い!」って見ていました。でも、野球を見ていると、子供時代の恥ずかしいことを思い出すのよね。

それは父親がテレビで野球観戦をしている時に、幼かった私は「ねえ、バントでボールが場外に飛んだらホームランになる?」と父親に質問をして、父親から「あはは」と笑われた(バントはスイングせずに、寝かせたバットで投球を軽く当てて、内野に転がす方法です)ときのこと。その父親の「あはは」はこいつ何もわかっていないな、という意味を含んでいたのを感じてものすごく恥ずかしくなったんです。

いま、自分がバッティングセンターとかに行って「うわ〜!思いっきりバットを振っても全然遠くに飛ばない!」ということを何度も経験して、自分の体幹のなさや、筋肉の足りなさを実感して「ホームランを打つってものすごく大変なことなんだ」ということがわかります。

私は、まさにダニング・クルーガー効果を起こしていたわけです。面白いのが、この後に私は野球のルールを全く覚えようとしなくなったこと。

近所の子供達が野球をやっているのに入っていっても、私はルールが全くわからないから「おい!何やってんだよ!」とみんなから怒られる。私のせいで点数が入ってしまってみんなから顰蹙を買っているのにも関わらず、私は野球のルールを覚えようとはしなくて、覚えないままチームに参加してしまい、そのうちに「あいつが入るとダメだよな!」ととうとう誘われなくなってしまいました(めちゃくちゃ痛い子だ!)。

まさに、これがダニング・クルーガー効果なんですよね。底辺になればなるほど「私はすごいんだ」という錯覚が起きて「ルールなんて覚える必要がない」となってしまう。実際に私が思っていたのは「ルールを覚えるのが面倒くさいし私には無理」と思っていた。その下にはダニング・クルーガー効果の「私はすごいから」というのがあったみたい(ヒエ〜!)。

 

この仕組みが面白いんです。それはダニング・クルーガー効果を起こすきっかけですね。

まずは、父親が野球観戦をしていた時に、なぜ、私がダニング・クルーガー効果を起こしたのか、というと「父親から見捨てられる」という不安があったから。

そう、父親の会社はいつも火の車で、帰ってくるのも遅いし、帰ってきた時もイライラしている。だから、遊んでもらったことなどなかったんです。そんな父親が初めて野球観戦をして楽しんでいるのを見て「私では喜んでもらえないんだ」という父親からの見捨てられる不安が湧きます。

その見捨てられる不安(外側手綱核)で私の脳内の孤独脳(背側縫線核)が活発になると「父親からものすごく大切にされて愛される」という期待脳(腹側被蓋野)が活発になってしまう。

この期待脳は快感や報酬、目標に向かう動機づけに中心的な役割をしています。

私の孤独脳が活発になればなるほど、期待脳も活発になって、「私は父親から認められるすごい野球の能力を持っている子供でその能力で父親から愛されるはず」となってしまう。だから「バントでホームラン」という痛い発言が出てきます。その発言をしたら父親が感心してくれて「素晴らしい子供だね」と愛してくれるはずなのに「あれ?呆れられて終わった」となると、ますます父親からの見捨てられ不安で孤独を感じると期待脳が活発になって「私は父親から認められるすごい野球の能力があるんだ」という錯覚を起こしてしまう。だから「野球のルールを覚えるのなんて面倒くさい」となってしまう。

 

さらに近所の子供達から野球をしている時に「大嶋は使えねえ!」と馬鹿にされればされるほど、私の見捨てられる不安が強くなって、孤独脳から期待脳が活発になってしまい「私は練習や野球の知識なんて必要なくてすごい能力があるんじゃ〜!」となってしまうわけです(あちゃ〜!)。

ダニング・クルーガー効果の「底辺であればあるほど、能力の錯覚がすごくなる」というのは「周囲から除け者にされて見捨てられる不安」と「孤独」を感じるからなんですよね。

 

こんな私が「そこに美しさを見出す」を唱えてみます。

すると「孤独って美しいんだな」と思えてくるから不思議。ずっと孤独って醜いものだと思って怯えていたけど、孤独であればあるほど美しく輝ける、という感じになってくる。それは人に認められるために生きるのではなくて、自分の美しさをとことん追求するために生きられるから。

すると、私の期待脳がいつの間にか安らかな眠りへとついていく(全てナラティブで書いています)。