人が決めつけた「あなたらしさ」を、そっと超えていく生き方
朝、ジョギングの途中で市場に寄って鶏肉を買っている時に、肉屋の女将さんから「今度のマラソン大会に参加するの?」と聞かれて「いや〜!マラソン大会とか緊張するから参加できないのよね」と答えている私がいました。
みんなよくマラソン大会とかに参加できるな〜、って私は参加している人たちがすごいと思う。私は「マラソン大会がある」と思っただけで、何ヶ月も前からドキドキしてしまって、そのことをずっとぐるぐる考えてしまう。そして、考えれば考えるほど気が重くなって「やっぱり参加するのはやめようかな」と絶対に迷うようになって、さらに苦しみが増していく。 後は、人と競い合うのも苦手かもしれない。そうなのよね、競い合って「あなたの順位は〇〇番でした」と現実を突きつけられてガッカリするのが嫌かも。
だったら何のために走っているの?と言われます。
「健康のために」とか「病気にならないように走っています」などの一般的な理由もあるけど、実際は、私は人の期待を裏切るために走っている。
母親から「あなたは何をやっても長続きしない」と子供の頃に言われて「確かに全て三日坊主だ」で惨めな気持ちになっていました。「あんたなんて絶対に続けられない」という期待を裏切っちゃえ!という気持ちで走っている(器のちっちゃい人間だな〜)。別に私をバカにしてきた人を見返したい、ということではなくて、「絶対に続けられないと思われているな」と思ったら「その期待を裏切っちゃえ!」と陰でこっそりとみんなの期待を裏切ることをしている。
高校の時に「アメリカで心理学を学びます」と職員室で担任に伝えたら、そこにいた先生たちが大爆笑したのは「英語の成績で赤点しか取ったことがない大嶋がアメリカで勉強なんてできるわけがない!」と思われていたから。だから、私が挫折して帰ってくるのを先生たちは期待していたわけです。その期待を裏切っちゃおう!と思ったら、こっそりと陰で期待を裏切るために淡々とやることができるのよね。これが不思議。
人の期待を裏切るのが大好きって、自分でも変だと思うけど、それを考えるととても楽しい。
あんたは手先が不器用なんだから、魚を捌くのなんて無理、と言われたら、逆に嬉しくなる。なぜなら、期待を裏切っちゃお!でこっそりと魚が捌けるようになるから。
私の場合「あなただったら簡単に魚を捌けるでしょ」と期待されたら「出来ません!」ってなってしまう。でも「不器用なあなただったら絶対に無理」と思われたら「ふっふっふ」と心の中で笑いが出てしまう。絶対に期待を裏切ってやるからね!って魚を捌くのが楽しくなる。
子供の頃は、私はみんなの期待に従順でした。「やればできるのにあなたはちっとも勉強をしない」と期待されたら、その通りに動いていた。「鈍臭くて運動ができないダメな子」と期待されたら、その通りに運動ができない鈍臭い子になっていた。楽器を弾いたって全て中途半端、と期待されたらその通りに私は動いて、全てが中途半端なダメ人間をちゃんと演じてしまう。周りの人たちが期待した通りの人間をちゃんと演じていたんです。
そんな私がいつの間にか「人の期待を裏切るのが大好き!」って性格が悪くなっていた。
なぜなら、ずっと人の期待に沿って従順にダメ人間を演じてきたわけです。人の期待に従順であっても、人から愛されるわけではなくて、ただひたすら蔑まれるだけでしたから。
人の期待に従順になって、期待通りにどんどん醜い人になっていった。だから、今は人の期待を裏切って「そこに美しさを見出す」をするんです。
人の期待を裏切っていくと、楽しく美しさを追求することができるようになります。人には期待を裏切っていることを知られないように陰でコッソリと期待を裏切って、美しさを探求する喜びが感じられるんです。