「金銭欲で心を安らかにしてみる」ということを考えてみると面白くなってきます。

なぜなら、私は「お金」のことを考えると嵐の大海原のように心が乱れてしまうから。

ちょっとでも「お金」のことを考え始めると「これから先のお金がない」とか「お金の余裕が全くない」など貧しい気持ちになって「私ってどん底じゃん!」で心が荒れまくってしまう。だから「金銭欲で心が安らかになる」ってことはあり得ない、と思ってしまうんですね。イエスが「お金持ちが天国に入るのは楽だが針の穴を通るほど難しい」と言っていました。私はそれを聞いて「私がお金持ちになるのは楽だが針の穴を通るほど難しい」と信じて疑いません。

 

ここで興味深いのは「みんな自己肯定感が低い」と思ってみること。

金銭欲で心を安らかにするために「みんな自己肯定感が低い」と心の中で呟いてみると「あれ?このお金がない感覚ってみんなの感覚かも!」って思えてくる。

そして、私が「みんなお金に余裕があって自己肯定感が高い」というヒューリスティックが働いていたことが見えてきた。私以外は、みんなお金に余裕があって自己肯定感が高いんだ、と私の側頭頭頂接合部(推測脳)が働いて、勝手に推測してしまっていた。

そして「私だけがこんなにお金がなくて惨めな思いをしている」と心が荒れてしまうのも、推測脳がバリバリに働いているから。

 

私は金銭的にも底辺の底辺である、という感覚に推測脳が働いてしまうと、そんなふうに思い込んでしまって、それが現実であるとなります。それと同時に私の中では「清く正しく生きているから私は周りの人と違うんだ」という特別感も湧いてくる。

周りの人たちは、ずるいこと、悪いことをしているから、お金に余裕があるけど、私は正直に正しく生きているから、みんなとは違うんだ、という感覚もある(ヘェ〜!)。

そうなのよね!私は「自己肯定感が低い私は謙虚で特別」って思っているし「いつもお金がない私は、周りの人たちのために自己犠牲を払って生きている高尚な人間である」となっている。これが金銭欲に条件づけられている罪悪感の裏返しになる。

 

清く正しく生きていて特別な私を神様はどうしてこんな惨めな思いをさせるんだ!と神様に怒っている私がいる。でも、そんな神に怒りをぶつけることで、神との親密感を感じてさらに特別感に浸っているのね。確かに「お金を貯める」ってコツコツやるものなんだけど、私はそれをやらずに「どうして神は私をお金持ちにしてくれない!」って怒っている神頼み。すごい話「神は私をお金持ちにしてくれない」というんだったら、自分で貯めるなり、稼ぐなりなんとかすればいいのに、宝くじばかり当てにして何もしない私は何もしない。

 

「みんな自己肯定感が低い」と思ってみると、私はこんな景色が見えてきて「あぁ!私よりもみんな自己肯定感が高いと思っていたから、周りの人たちが“神”に見えていたのね」ということが見えてくる。私は子供の頃から成長していない感覚があったのは「みんなよりも私は自己肯定感が低い」と思っていて「みんな私よりも自己肯定感が高い」になっているから、私はいつまでも子供の精神状態で「困っている子供である私を周りの“神(自己肯定感が高い人たち)”がなんとかしてくれて救ってくれるべき」となっていた。

でも、私にとっての“神”は母親が経験値のベースになっているから「私の罪を裁く神」となる。私が「お金がない」と心が荒んだときには、推測脳で周りの人の気持ちを勝手に推測してしまうから「お金がない醜い私を呆れて馬鹿にしている」と思って、ますます私の心は荒んで「神のせいで私はこんなに貧乏である」と怒って自分では何もしようとしなくなる。

「みんな自己肯定感が低い」と思ってみると、推測脳が働かなくなって「あれ?将来のお金のことを考えなくなったかも!」ってなって心が静かになります。

将来のお金のことを心配するのって「この年齢の私の貯金額を他の人が知ったらどんなふうに思うかな」と推測脳を働かせてしまうから不安になっていたことが見えてきます。

 

推測脳がオフになると、共感脳が働き出して「これまで私はよくやってきたな〜!」って思えてくる。これまでよく生きてきたな〜!と思ってみると、これからの私は伸び代しかないので「私のこれからが楽しみかも」と思えてきます。そう、私はこれまでの困難をたくさん乗り越えてきました。振り返ってみたら、ずっと私の中の心の中の炎は燻りながらも消えることがなく、今も淡々と燃え続けている。そんな私の心の中の金銭欲を大切に燃やしながら楽しもう。