情報の流暢さが「気持ちいい!」につながるのだったら、他者目線で物事を考えてしまったら「気持ちいい!」なんて感じることができなくなる。なぜなら、他者目線で物事を見れば見るほど情報はどんどん複雑になっていくから。


先日、私は電車に乗って美術館に行って絵画を見ている時に「おぉ!美しい!」と感動をしていました。ところが、後ろから来た中年男性の気持ちを考えて「このおじさんは、早くこの絵画の前から退け!と思っていると考えた途端にさっきまで見ていた絵画がまるで印刷された価値のないもののように感じられてしまいます。そして、私は、後ろからプレッシャーをかけてくるおじさんにイライラしながら、次の展示されているものに移動しますが、そこから「美しい!」という気持ち良さが全く感じられなくなって、おじさんのことが気になってしまう。


そう、私が「自分目線」で絵画を見ていた時は、情報はストレートに入ってきて「気持ちいい!」が感じられるけど、他者目線を使ってしまうと情報の流暢さが失われてしまうから「気持ちいい!」が感じられなくなるわけです。


私が職場の上司の話を聞いている時に、自己目線だと「おぉ!その考え方面白いかも!」とそこに気持ち良さを見出すことができます。ところが私はそれを退屈そうにして聞いている同僚、そしてイライラしている人の顔を見た時に、その人たちがこの話をどう受け止めるのか?ということを自動的に考えてしまって「この上司は間違ったことを言っているのでは?」と思ってしまう。そして私は上司に「先生!それってどういうことですか?」と余計な質問をしてしまって、上司を苛立たせてしまっていた。


そう、情報が自分目線で流暢さがあると「それは素晴らしい!」って単純に感動できちゃう。ところが、他者目線を使って情報の流暢さがなくなると美しさを感じられなくなって、私は余計なことを言って場をしらけさせてしまう。


私がズボンを買おうと思って、お店に行った時も「これいいな〜!」と思って値札を見たら「うわ!高いかも!」と思うのも他者目線を使って情報の流暢さががなくなってしまうから。「これいいな〜!履いたらかっこいいだろうな〜!」と感じられるのは、情報の流暢さがあるから。私の場合、値札をチェックする、というのが「母親目線」なんですよね。母親目線で「また、そんな無駄遣いをして」となってしまうと「買いたいのに買えない!」で安物のズボンを買ってしまって「あぁ〜あ!また安物買いの銭失いをしている」でせっかく買ったものを「気持ちいい!」で喜べなくなってしまいます。


「そんな気持ちいいなんて感じなくてもいいじゃない!」と私はずっと思ってきたわけです。家族に、そして周りの人に喜んでもらえればいいじゃない!って思っていたのですが、私の中ではどんどん、周りの人に対する怒りが溜まっていきます。「私はこんなに気を遣っているのになんであの人はちっとも人に対して気を遣わないんだ!」とイライラしちゃう。「どうしてあの人は自分勝手なんだ!」と一人になってからも不快な人のことをぐるぐる考えてしまいます。


それは、他者目線をつかって情報の流暢さを欠くことで、GABA受容体がどんどんダウンレギュレーションを起こしてしまうから。自分の目線で情報の流暢さで「気持ちいい!」が感じられればGABA受容体がどんどん復活して、どんどん情報が流暢になって「気持ちいい!」を躊躇なく選択することができちゃう。私が他者目線を使って情報の流暢さを欠いてしまうと、GABA受容体がダウンレギュレーションを起こして、ますます情報の流暢さがなくなって「他者目線がやめられない!」という仕組みになっています(全てナラティブで書いています)。


私の「気持ちいい!」を追い求めることが情報の流暢さに繋がっていきます。そして情報の流暢さはGABA受容体の復活でした。さらにGABA受容体の復活が「本来の自分に戻っていく」ということになります。


アルコール依存症の家族が「あの人が言っているのは本心ですか?」と酔っ払って言っていることを「本心」と勘違いしてしまう。「いいえ!破壊的言動は全てGABA受容体がダウンレギュレーションを起こしてサージを起こしているだけ」なんですよね。私の頭の中でもそれと同じことが起きていて「気持ちいい!」で情報の流暢さを取り戻すことで脳は元に戻って自分らしく心安かに生きられる。