人は一冊の本である、と思ってみた時に、街中を歩いていると「いっぱい本が歩いている!」と本屋さんを探索しているような感覚になります。

タイトルと表紙は、歩いている人の顔と服装だったりする。 そこから「興味がある or 興味がない」を自然と私は選択して、本の中身を勝手に想像して楽しんでいる。

喫茶店に入ってみると、上司の悪口を言っている人がいると、私は「なんで人の悪口をこんなところで言うかね!」と思ってしまう。 でも「人は一冊の本」と思った時に、今私が聞いている職場の上司の悪口もセリフの一つでしかない。 実は上司の愚痴を言っているようで、愚痴を言っている上司に恋愛感情があって、という恋愛ストーリーが流れているのかもしれない、と思ってみると楽しくなってくる。


私は子供の頃から「あんたは人の言葉を間に受けすぎ」と言われました。 誰かが誰かの悪口を言っていたら「この人は本当にあの人のことを嫌っているんだ」と間に受けちゃう。

それって私の外側手綱核のGABA受容体がダウンレギュレーションを起こしていて「社会的刺激に敏感」になっているから「私の悪口を言われている」と受け取ってしまうからなのよね。

人間関係では外側手綱核が過剰に働いて敏感になっているから「安心」を感じられないから、不快な言葉や音にものすごく反応してしまって「私が攻撃されている」で間に受けて感情に反応してしまう。 でも「人は一冊の本」としてみると、私にとっては「本の中は安全」なのよね。 だから、人の言葉を間に受けることなく、その裏にある面白いストーリーに興味を持つことができちゃう。


そう、興味を持って「楽しむ」と言うことをすることでダウンレビュレーションを起こしていた外側手綱核のGABA受容体が復活して「あれ?人が怖く無くなってきた!」となって生きるのが楽になる。人前でものすごく緊張していたけど、その緊張がなくなるのは言葉を真に受けないで、相手を一冊の読み物として楽しむことでGABA受容体が復活するから。

私は、ゴシップ雑誌も好きだし、時間さえあればファッション誌だって読んでみたい。 人を一冊の本と思ったら世の中にはたくさんの本で溢れている。 


私は、ちょっと前まで夜寝る時に臼井儀人先生の「クレヨンしんちゃん」を読んで寝ていました。 何度も、何度も繰り返し、本棚から引っ張り出してきて寝る時に、数ページ読むと「グゥー💤」と寝てしまう。 主人公は幼稚園児だし、知能の設定はそれほど高くない。 人の人生を楽しむってこういうことなのかも、と私は思いながら、いつの間にか夢の中に入ってしまう。

本を読んで「知的好奇心が満たされる」とか「精神的に整えられる」なんて言うことが全く関係なくて、そんなことを全て捨てて子供の心に戻って楽しむ。 幼子の心に戻って楽しんだ時にGABA受容体が復活するから「グゥー💤」と眠れるのよね。


楽しめなくなるのは大人になって情報の流暢性が失われてしまうから。

シンプルになればなるほど、楽しい!ってなっていき、その楽しみの中から美しさが見出せるようになっていきます。 知識なんて必要ないのよね! 純粋に「楽しい!」というだけでいい。

人を一冊の本と見た時に、複雑な本を読んでいると言うよりも、幼稚園児の主人公を読んでいると思った方が純粋に楽しめてGABA受容体が復活していく(全てナラティブで書いています)。

さらに、自分が幼稚園児の主人公になりきって楽しんでみると、究極の情報の流暢さが得られるのかもしれません。


人を一冊の本として読むのは「幼稚園児の私」であったのならば、全ての人生が豊かに楽しめるものとして吸収できて、GABA受容体が復活して本来の自分へと戻っていく。

そう、本来の自分ってあの幼稚園児のような私なのかもしれません。