なぜ人は、幸せになりそうになると面倒くさくなるのか
ある男性は、付き合ってる女性から「どうして私のために何もしてくれないの!」と言われて「はい?」となります。
以前だったら「付き合った記念日」とか「誕生日」などと称して、彼女に内緒で旅行などを計画して、当日にドキドキしながら「サプライズ!」という感じで彼女を驚かせていた。それが付き合っているうちにだんだん男性は面倒くさくなってしまってやらなくなる。すると彼女からは「以前はお花とかお菓子とかを驚かせるために送ってくれたのに今は全然してくれなくなった!」と怒りをぶつけられてしまう。
すると男性はそんな文句を言う女性に対して余計に喜ばせるための「サプライズ!」をやりたくなくなってしまいます。
これって、男性の方の「付き合っていくとどんどん親密な関係になって幸せ」に「やる気ブレーキ」がかかってしまうから「幸せ」の方向に進めなくなる。それを彼女が敏感に受け取ってしまって「私のことを大切に思っていないの?」となってしまうのよね。
彼女のことを大切に思っていないのではなくて「やる気ブレーキ」が思いっきりかかって「幸せ」を失う方向に行っちゃうだけ。
男性の中では「こんなに彼女のために一生懸命に尽くしているのになんでこんな文句を言われなきゃいけないんだ!」と思っている。この男性の「こんなに彼女のために尽くしているのに」という仕組みが面白いのよね。
彼女の喜びが彼にとっての「報酬」だとすると「罰」が必ずそこに条件づけられている。その彼の中での「罰」が「彼女のために無理をしてやっている」という感覚ですね。
子供の頃から「やる気ブレーキ」がかかっているから「報酬」に「罰」が必ず条件づけられている。だから「彼女の喜び」は「自分の苦しみ」でやる気ブレーキがかかって「やりたくな〜い!」ってなってしまう。
やる気ブレーキがかかっていると「幸せ」という報酬に対して「罰」が条件づけられてしまって「なんで自分ばっかり!」ってなる(全てナラティブで書いています)。
これを私自身に置き換えてみると「自分を喜ばすことをするなんて面倒臭い」と私は思っているな〜、とちょっとゾッとする。倦怠期を迎えたカップルのような感じじゃない!と思うわけです。調子が悪くなったり、病気になったりすれば「大丈夫?」と一生懸命に世話をしたりするけど、それ以外は「馬車馬のように働け!」という感じで自分を喜ばすようなことをしていない。
私は「自分を喜ばすためにポテチを買って食べているじゃない!」と自分自身に問いかけてみる。すると「さっきのカップルの女性にそんなこと言ったら大変なことになるな!」ということがわかる。ブチギレられて踏みつけられますね!
だから、私のやる気ブレーキがかかったままなんだ!ということが他のカップルを参考にしてみるとよくわかる。人のことだったら「花でも買っていけばいいのに!」と思うのですが、私は自分に対しては決してそんなことを思いつかない。
他人のことだったら「ケチらないで彼女を温泉旅行に連れて行けばいいじゃない!」って私の「やる気ブレーキ」がかからないから面白い。そこで他人のカップルの関係修復だと思って、私自身にそれを応用してみる。「幸せ」を感じなくなったら、相手は去っていく、と思ったら「幸せ」ってとっても重要なものなのね、と実感できちゃう。自分自身は去っていかないけど、倦怠期のカップルのように、冷たい反応しか返ってこないで、一緒にいるだけで苦痛を感じるようになる。確かに私の中ってその状態じゃない!出てくるのは文句ばっかり。苦痛と悲観と絶望しかない私の中はまさに倦怠期のカップルと同じ状態なんだ、となるとちょっとやる気ブレーキが外れて「自分を喜ばすためにサプライズを用意するか!」と思うわけです。
「倦怠期の相手を喜ばす」と思ってみると、自分にお金をかけることじゃないのよね。倦怠期の相手にお金をかけたものを送っても、最初はびっくりするけど、なんか微妙な空気になってお金をかけたことを後悔しそう。一番相手が喜ぶのは「相手のために時間を作る」なんだろうな。そうなると「自分自身のために時間を作る」ということが私にとっていちばんの「幸せ」につながることになって、やる気ブレーキが外れていく。
すると私とってさらに大切なことが見えてきて「幸せ」に向かって突き進むことができるようになっていきます。
P.S
「悪徳の快楽」のことを本当は掘り下げて書きたいのですが、やっぱり刺激が強すぎるので「無理!」ってなる。感謝祭の時が楽しみです。私は、書きたいけど書けない!から解放されるかも!当日に全然質問されなかったら笑っちゃいますけどね。