なぜ人は、期待されるとダメになるのか
私は、子供の頃から「本番が苦手」というのがありました。
まあ、試験とかがそうですね。 私は「ちゃんと勉強していないからできないんだ」と思っていました。 でも、試験の当日になって「はい!始めてください!」と答案用紙に名前を書いた途端「あれ?頭が真っ白で何もわからない!」ってなってしまいます。 隣の子はスラスラと問題を解いているのに、私は頭が真っ白になって「全然答えがわからない!」でショックを受けてしまう。
これも「やる気ブレーキ」がかかっていた、と思ったら「な〜んだ!」ってなる。
そうなのよね! 私は「いい点数を取って親から褒めてもらいたい!みんなから尊敬されたい!」という思いが強かった。 その思いが強いのに「なんで机の前に座ると勉強に集中できない?」というのが訳がわかりませんでした。 目の前の教科書や参考書に集中しなければいい点なんて取れる訳がないのに「机の上の消しゴムのカスが気になる」でそれを掃除し始めて、そこからなぜか隠してある漫画が気になって漫画を読んでしまって、時間がどんどん過ぎてしまう(テスト前なのに!恐ろしい〜!ホラ〜じゃ〜!)。
私は「報酬(いい点を取る)」に対して「罰(調子に乗るんじゃない!と怒られる)」が条件づけられていたので「やる気ブレーキ」が掛かっていい点数を取りたいと思うと「勉強へのやる気がなくなる」となっていた訳です。
そしてテスト当日も私はそんな感じで全く勉強していないのですが「いい点を取りたい」と思っただけで「やる気ブレーキ」で頭が真っ白になって試験中なのに眠くなっていた。
ピアノを教会で習っていた時もそうなんですよね。 「先生みたいに上手く弾きたい」という気持ちがあると、やる気ブレーキがかかってしまって「全然練習する気になれない!」ってなっていた。
そして、ピアノの先生のところに行って、ちゃんと弾かなきゃ、と思うと「全く指が動かない」になってしまって、先生にブチギレられていたな〜。
あと、私は「人から期待されるとダメ!」になってしまいます。
「今度の講演、楽しみにしてます!」と何人かの人から声をかけられると「やる気ブレーキ」が掛かってしまって、学生時代の勉強と同じ感じで「全然 講演の資料作りができない!」で焦ってしまいます。 学生の頃と同じような感じで、資料作りをしなきゃいけないのに、ノンフライヤーの調理器のことをインターネットで調べてしまいます(ノンフライヤーCOSORIを買ってしまいました!)。
「講演、楽しみにしています!」と言われたら「期待に応えなきゃ!」と思うのですが、そう思うと「やる気ブレーキ」が脳内で掛かってしまって「資料作りをやりたいんだけど、集中できない」ってなるのよね。
この「やる気ブレーキ」が掛かってしまう時は「悪徳の快楽」が私に取っては効果的なんです。
「やりたいけど、気持ちだけが焦ってできない」ってなってしまう時に「悪徳の快楽」を唱えてみます。
私が「悪徳の快楽」を唱えてみると「フッフッフ!自分の期待を裏切ってやるぜ!」という悪い気持ちが湧いてくる。 そう、私の未来予想は「いつも資料作りは直前までしかできなくて、どうせ、講座に向かう電車の中でやるんでしょ」と思って自分のことを馬鹿にしている。 「悪徳の快楽!」と唱えてみると「そんな期待を裏切っちゃる!」と思えて、資料を淡々と作成していく。
そして、資料が完成したら「一回作ったら見直さない!」という私が「何度も見直してしまう」というのが「悪徳の快楽」の効果。 見事に自分の期待を裏切ってあげている訳です。
そう、私が「本番が苦手」と思ってやる気ブレーキがかかってしまう時に「悪徳の快楽」を唱えてみると、「私が絶対に失敗する、と思っている人たちの期待を裏切っちゃる!」っていう気持ちになるから面白い。 私にとって「悪徳の快楽」は「やる気ブレーキ」を外すのにものすごく効果的。 もちろん、こんなふうに書いてしまうと「やる気ブレーキ」が掛かって「呪文を唱えてもなんも効果が得られない!」ってなる訳です。 そう、私は「報酬」に対して「罰」が条件づけられているから、やる気ブレーキが掛かって「いい結果が出ない!」ということを繰り返してました。
「悪徳の快楽」は「いい結果を出す!」という方向には向かないのよね。 期待を裏切る方向で働いて、いつの間にかやる気ブレーキが緩んで心が安らいでいきます。
P.S
臨床催眠講座のアセスメントアドバンスコースの参加者の皆さん、お疲れ様でした。
8回の講座がものすごく楽しくて現在私は講座ロス状態です。
皆さんのおかげで、どんどん臨床がバージョンアップして楽しくなっていきます。感謝です!!ありがとうございました。