人から褒められることが「恥ずかしい!」と私が思ってしまうのは、私がシャイだからだと思っていました。

でも、それは私の「やる気ブレーキ」のせいで「報酬(褒められる)」があると思いっきりブレーキを踏んでしまって「素直に褒め言葉を受け取れない!」となってしまう。

だから私は「誰からも褒められたことがない」と思っている。

実際は、褒められた問いに素直に受け取れないから「記憶に残っていない」となってしまっている。


この私の「恥ずかしい!」という感覚が「やる気ブレーキ」が掛かっている証拠なのかも、と思って探ってみると面白い。

私が「恥ずかしい!」と思う場面は「人の真似」をしている時。


小学校の運動会で「みんなで踊る」があって「みんなの真似をして踊る」という時に私は顔が真っ赤になって「できない!」となっていた。

まあ、幼稚園の時に、私が踊っていたら、幼稚園の先生だった母親から「この子の踊りはタコ踊りみたい」とみんなの前で言われて揶揄われて、それから踊りが苦手になった、というのもある。

でも、それだけじゃなくて「みんなの真似をする」という場面で私はものすごい恥ずかしさを感じていた。

それで私は、真面目に踊ることができなくて、自分のオリジナルの動きになってしまって、先生から「大嶋!またか!」と呆れられていた。


そう!「みんなの真似をして踊る」をした時に「一体感(報酬)」が得られちゃう。

私の気持ち的に「私なんてみんなと一体感を感じるなんて申し訳ない!」と思っているのですが、実際は「やる気ブレーキ」が掛かってしまって「一体感」という気持ちよさを感じることにブレーキが掛かっていた


子供達で集まって野球をした時には、他の子達は「プロ野球選手の真似」をしながら楽しんで「どんどん野球が上手くなる」となっていた訳です。

私は「イチローの真似をする」なんて考えただけでも顔が赤くなってしまってできなくなるのは「真似をすれば上手くなる(報酬)」に対してやる気ブレーキが掛かっていたから。


私にとって「やる気ブレーキ」はものすごいハンディーキャップになっていたんです。


なぜなら、習字でもそろばんでも「先生の真似をする」というのがものすごく恥ずかしくて「できない!」になるから「自分のオリジナルのやり方」でやってしまう。

習字なんて、先生の書き順をちゃんと見ているのに「真似をするのが恥ずかしい」とやる気ブレーキがかかるから「書き順が適当」になってしまいます。

そろばんも、先生の真似をすれば上手くなるのに、私は「真似をするのが恥ずかしい」となるからお手本通りにできなくて、どんどんみんなに置いて行かれて「ダメ人間」になっていました。


私の「やる気ブレーキ」が本当に重症なのは「相手に話を合わせる」が「恥ずかしい!」となってしまうから「相手が言っていることの真逆を言ってしまう」になる。


近所のおばちゃんが「なんか寒そうな格好をしているね!」と言われたら「寒いですね!」と私は答えれば「一体感(共感という報酬)」が得られるのに、やる気ブレーキがかかるから「全然寒くないです!」と応えてしまうから「一体感」をぶち壊して「シーン」となる(アハハ〜!)。

みんなと一緒にアイドルの話で盛り上がれば「楽しい」となるのに、やる気ブレーキが掛かってしまうから「私はテレビを見ないから」とちっちゃな嘘をついて、みんなの楽しみを盛り下げるようなことを言ってしまう。


私はやる気ブレーキで「報酬」をぶち壊すことをものすごいやってたな〜!


そんな私が「悪徳の快楽」を唱えてみると「あれ?真似することが楽しい!」となるから面白い。

「悪徳の快楽」を唱えると「真似して、相手の技術を盗んじゃえ!」って悪い気持ちが湧いてくるから、真似をすることが楽しくなってくる。

「悪徳の快楽」を唱えて相手の真似をしてみると「おぉ!こんな簡単なことでいいんだ!」と何をやるにもハードルが下がって楽しくなってくる。

「悪徳の快楽」を唱えて真似をすると、相手と不思議な「一体感」を感じられるようになって、相手の技術を使って楽しめちゃう。

そして、楽しんでいると、どんどん相手の見ているであろう世界が見えてきて「おぉ!こんな風にあの人は見えているんだ!」と感動しちゃう。


自分には不可能だと持っていたことが、どんどん可能になっていって、そして、目の前の世界が開けていきます。そして、開けた世界の中で私の心は安らいでいく。