幼稚園の頃のことです。


教会の建物で、誰かの結婚式が行われていました。


2階の会場からは、

「わー!」

という楽しそうな声が聞こえてきます。

きっと、みんなで食事をしたり、笑ったり、お祝いをしたりしていたのでしょう。


ところが私は、その会場にはいませんでした。

1階の駐車場にいました。

三輪車に乗って。

一人で。


何をしていたのかというと、

警備です。

もちろん、誰にも頼まれていません。

幼稚園児の私が、勝手に警備員をやっていたのです。


◇「悪い人が来たら、僕が守らなければ」

私は三輪車で駐車場をぐるぐる回っていました。

悪い人が来ないように。

結婚式を邪魔する人が来ないように。

みんなが安心して結婚式を楽しめるように。

私が守らなければ。

そんなことを考えていたのだと思います。


今考えると、

「いやいや、一緒に結婚式に参加すればいいじゃない」

と思います。

みんなが楽しそうにしているのです。

だったら、自分も2階へ行って、一緒に楽しめばいい。


ところが、私は行かないのです。

一人で駐車場をぐるぐる回っている。

そして、


「僕がみんなを守る」


という妄想の中にいる。

なかなか恐ろしい幼稚園児です。


◇ 正義の味方になりたかった

私は子どもの頃から、

誰かを助ける妄想をよくしていました。


困っている人がいる。

危険な目に遭っている人がいる。


そこに私が現れて、

みんなを救う。


そんなことを、ぼーっと考えていました。

正義の味方です。

ヒーローです。


でも今になって考えてみると、

この正義の味方には、

大きな問題がありました。

自分がいないのです。


自分は楽しいのか。

自分は寂しくないのか。

自分は誰かと一緒にいたくないのか。

自分は守ってほしくないのか。


そんなことは全部、置き去りです。


自分のことはさておいて、

誰かを守ろうとしている。

これが、私のセルフネグレクトだったのかもしれません。


◇ 人を救うほど、自分がボロボロになる

セルフネグレクトというと、

部屋を片づけられないとか、

病院へ行かないとか、

身だしなみを整えられないとか、

そんなことがイメージされるかもしれません。


でも、もっと見えにくい形もあるのだと思います。

それが、


「自分を放置して、誰かを救おうとすること」


です。


あの人が困っている。

助けなければ。

この人が苦しんでいる。

何とかしなければ。


家族のために。

友達のために。

会社のために。

社会のために。

みんなのために。


そうやって走り回っているうちに、

自分はどんどんボロボロになっていく。


それでも、

「まだ誰かを助けなければ」

と思ってしまう。


幼稚園の頃の私は、

すでにそれをやっていたのかもしれません。


みんなが楽しんでいる場所には入らず、

一人で三輪車に乗って、

誰も頼んでいない警備をしている。


なんだか、その後の人生の縮図のようにも見えます。


◇「私が私の親だったら?」

そんな自分を見たときに、

最近、私はこんな問いかけをしています。


「もし、私が私の親だったら、この子に何をしてあげるだろう?」


三輪車で一人、

駐車場をぐるぐる回っている幼い自分。

「僕がみんなを守らなければ」

と思っている自分。


その子を見たら、

何と言うだろう。

私の中に浮かんできたのは、


「本当は、自分が守ってほしかったんだよね」


という言葉でした。


◇ 守ってほしかった、ではない

でも、少し違う気もしました。

「守ってほしかった」

ではないのです。

過去形ではありません。


今も、守ってほしい。


今も、

「誰か、自分の味方でいてほしい」

と思っている。


私の中には、

「自分には味方がいない」

という感覚が、ずっとあったのかもしれません。

だから、

自分が誰かの味方になる。

自分が誰かを守る。

自分が誰かを救う。

そうすれば、いつか自分にも味方が現れるかもしれない

そんなことを、どこかで期待していたのかもしれません。


◇「私があなたの味方だよ」と言ってみる

そこで、自分に言ってみます。


「私があなたの味方だよ」


ところが、

自分の中から返ってくる言葉があります。


「嘘つき」


確かにそうなのです。

私はこれまで、

何度も自分を裏切ってきました。

疲れている自分より、人を優先した。

悲しんでいる自分より、人の機嫌を優先した。

苦しんでいる自分より、誰かの問題を優先した。

寂しがっている自分を置き去りにして、

誰かを救うことばかり考えてきた。


そんな私が突然、

「私はあなたの味方です」

と言っても、

そりゃあ信用されません。

「今まで散々、私を置いていったじゃないか」

と言われても仕方がない。


◇ 自分を裏切ってきたことを認める

だから、まず必要なのは、

立派な言葉をかけることではないのかもしれません。

「そうだね」

と認める。

「私は何度もあなたを置いていったね」

「人を優先して、あなたを後回しにしたね」

「悲しんでいるのに、他人の問題を考えていたね」

「寂しいのに、一人で頑張らせたね」

それを認める。


すると、少しずつ、

「今度は私があなたの味方でいたい」

という言葉が、本物になってくるような気がします。


◇ 親も「誰かのため」に忙しかった

振り返ってみると、

私の親も「誰かのため」に忙しかったのだと思います。


宗教のため。

教会のため。

世間のため。

親戚のため。

誰か困っている人のため。


もちろん、それ自体が悪いわけではありません。

人のために動くことは素晴らしいことでもあります。


でも、

そのすぐそばにいる子どもが、

「寂しい」

と感じていることに気づかなければ、

子どもは情緒的に一人になります。


「ちゃんと食べさせている」

「服も着せている」

「学校にも行かせている」


それでも、

子どもが感じている孤独に誰も寄り添わなければ、

その子の中には、


「自分には味方がいない」


という感覚が残ることがあるのかもしれません。


◇ 欲しかったのは、正しい答えではなかった

寂しいときに、

正しいことを教えてほしかったわけではない。

悲しいときに、

解決策が欲しかったわけでもない。

苦しいときに、

もっと頑張れと言ってほしかったわけでもない。


ただ、

「寂しいね」

と言ってほしかった。

「悲しかったね」

と、一緒にいてほしかった。


そして、


「私はあなたと一緒にいるよ」


と感じさせてほしかった。


もしかすると、

それだけだったのかもしれません。


◇ 正義の味方をやめてもいい

誰かを救わなくてもいい。

誰かを守らなくてもいい。

誰かの問題を解決しなくてもいい。


まず、

一人で三輪車をこいでいる自分のところへ行ってみる。

そして、


「もう一人で警備しなくてもいいよ」


と言ってあげる。


みんなを守らなくてもいい。

悪い人を見張らなくてもいい。

あなたも2階へ行っていい。

みんなと一緒に笑っていい。

楽しんでいい。


そして何より、

一人でいなくてもいい


セルフネグレクトから抜けていくというのは、

正義の味方になることではないのかもしれません。


◇ ずっと置き去りにしてきた自分の味方になること。

「私はあなたと共にいるよ」

そう言えるようになることなのかもしれません。


あの頃、

一人で三輪車に乗っていた子どもが欲しかったのは、

世界を救う力ではなく、

自分と一緒にいてくれる、

たった一人の味方だったのかもしれません。