体重計に乗るのが怖いのも、セルフネグレクトだった
こんにちは。
今日も無意識の旅を始めていきます。
今日は、
「体重計に乗るのが怖いのも、セルフネグレクトだった」
ということについて書いてみたいと思います。
◇ 炭酸水を飲んだから、今日は測れない
朝、走って家に帰ってきました。
「さあ、今日は体重を測ろう」
と思って体重計の前に立ちます。
ところが、その瞬間にこんな考えが浮かびます。
「途中で炭酸水を500ミリリットル飲んだから、今日は正確な体重が出ないな」
そして、
「測るのは明日にしよう」
となるわけです。
その前の日は、
「昨日、たくさん食べたから」
と測りませんでした。
さらにその前の日も、何か別の理由をつけて先延ばしにしていた。
そうやって、いつまでも体重計に乗りません。
ところが、測らないでいる間にも、
「もしかしたら、ものすごく太っているのではないか」
という恐怖は大きくなっていきます。
それでも、
「もう少し運動してから測ろう」
「きちんと体を絞ってから乗ろう」
と思ってしまうのです。
◇ 完璧な状態になってから確認したい
自分では、セルフネグレクトをしているという感覚はありません。
ただ、
「正確に測れるタイミングを選んでいるだけ」
だと思っています。
「もう少し良い状態になってから、現実を確認しよう」
と考えているのです。
でも実際には、体重を知ることを避けています。
今の自分の状態を見ないまま放置している。
これは、自分の健康や体の感覚を後回しにするセルフネグレクトなのかもしれません。
完璧になってから確認するのではなく、本当は今の状態を知ることが必要です。
けれど、その「今」を見ることが怖いのです。
◇ 健康診断にも行かなくなった
健康診断でも似たようなことがありました。
身長を測ったとき、看護師さんから、
「171センチです」
と言われました。
私は驚いて、
「えっ、以前は175センチありましたけど、そんなに縮むものなんですか?」
と聞きました。
すると、
「加齢とともに縮むことがあります」
と言われたのです。
私は思わずカチンときました。
「いくら加齢といっても、一年で4センチも縮むのか?」
と思ったのです。
後ろにいた男性も、同じようなことを言われて一生懸命抗議していました。
測定の仕方に何か問題があったのかもしれません。
もう一度測れば済む話だったのかもしれません。
けれど私は、その一度の出来事ですべてが嫌になってしまいました。
そして、健康診断そのものを受けなくなってしまったのです。
◇ 一つの間違いで、全部を投げてしまう
私は、自分が完璧ではないことに耐えられないところがあります。
でも、それだけではありません。
相手が完璧でないことにも、強く反応してしまいます。
看護師さんの測定が少しでも間違っている。
説明が納得できない。
すると、
「もう全部ダメだ」
となってしまうのです。
本当なら、
「もう一度測ってもらえますか」
と話し合えばいい。
けれど、それができません。
一つの間違いによって、その場全体を否定してしまう。
そして、自分に必要な健康診断まで手放してしまいます。
これもセルフネグレクトです。
相手の間違いに傷ついた結果、自分の健康を犠牲にしてしまうからです。
◇ 本を読むときにも同じことが起きる
これは、本を読んでいるときにも起きます。
少し難しいところがある。
一度読んでも理解できない文章が出てくる。
すると、
「わからない。もうダメだ」
と本を閉じてしまいます。
本の一部分が理解できないだけなのに、その本すべてを投げ出してしまうのです。
少し戻って読み直す。
わからない部分を飛ばして先へ進む。
あとで調べる。
本当なら、いろいろな方法があります。
けれど、わからないという小さな失敗に触れた瞬間、強い痛みが出てきてしまう。
だから、読むこと自体をやめてしまうのです。
◇ 小さなミスが、ものすごく痛い
なぜ、私は少しの間違いですべてを投げ出してしまうのだろう。
そこで、いつもの言葉を心の中で唱えてみました。
「私は、誰にも理解されない痛みを、ずっと抱えてきたんだ。」
そして、その痛みに心の手をそっと添えてみます。
すると、
「ああ、私は本当に痛かったんだな」
と感じました。
ちょっとした失敗。
ちょっとした間違い。
相手の小さなミス。
それらが、私の心には想像以上に大きな痛みとして響いていたのです。
ほかの人にとっては、
「まあ、そんなこともあるよ」
で済むことかもしれません。
けれど、私にとってはそうではありませんでした。
小さな間違いが、過去の「わかってもらえなかった痛み」に触れてしまう。
だから、同じ痛みを感じる前に、その場から逃げたくなるのです。
◇ 相手に完璧を求めるのも、痛みが怖いから
人に完璧を求めてしまうのも、相手を支配したいからではなかったのかもしれません。
相手が間違えると、自分の中に強い痛みが起きる。
その痛みが怖いから、
「絶対に間違えないでほしい」
と思ってしまうのです。
相手のミスを許せない自分を見て、
「私は心が狭い」
と責める必要はありません。
その下には、
「もう傷つきたくない」
という切実な思いがあったのです。
体重計に乗らないのも、
健康診断をやめてしまうのも、
本を途中で投げ出すのも、
痛みから自分を守るためでした。
◇「本当に苦しかったね」と声をかける
それに気づいたとき、私は自分にこう声をかけます。
「本当に苦しかったね」
「少しの間違いでも、こんなに痛かったんだね」
「その痛みが怖くて、全部を投げ出していたんだね」
そうやって痛みに寄り添うと、少しずつ体の力が抜けていきます。
完璧でなくても、もう一度やってみようと思える。
今日の体重を、そのまま見てみようと思える。
測定がおかしければ、もう一度測ってもらえばいいと思える。
本がわからなければ、一度閉じて、また開けばいい。
一つの失敗が、すべての終わりではなくなっていきます。
◇ 幼子のように、また遊び始める
痛みから解放されると、人はまた立ち上がることができます。
失敗してもいい。
間違えてもいい。
うまくできなくても、やり直せばいい。
そう思えると、世界は少しずつ遊び場に戻っていきます。
幼い子どもは、転んでもまた立ち上がります。
積み木が崩れても、何度でも積み直します。
本来の私たちにも、そんな力があるのだと思います。
完璧になるまで待たなくてもいい。
完璧なタイミングを探さなくてもいい。
今の自分のままで、体重計に乗ってみる。
今の自分のままで、もう一度本を開いてみる。
セルフネグレクトから解放されるとは、失敗しない自分になることではありません。
失敗しても、もう一度遊び始められる自分に戻っていくことなのだと思います。
また無意識の旅でお会いしましょう。