「本気を出せばすごい」と言いながら、何もできなかった理由
こんにちは。
今日も無意識の旅を始めていきます。
学生時代の、少し恥ずかしい話があります。
昼間からソファに寝転がって、テレビで『トムとジェリー』を見ながら、コーラを飲んでいました。
本来なら、授業に出て英語を勉強している時間です。
でも私は、
「本気を出せば、私はすごいんだ」
と思いながら、何もせずにだらだらしていました。
すると、英語を教えていたブラウン先生が部屋に入ってきました。
先生は、ソファに寝転がる私を見て、
「おい、何をしているんだ」
という、ものすごく呆れた顔をしました。
私は慌てて、
「いや、ここで英語を勉強しているんです」
と言いました。
『トムとジェリー』を英語で見ていたので、まったくの嘘ではない、という理屈です。
先生は、
「ふっ」
というような顔をして、そのまま去っていきました。
今思い出しても、
「痛い学生だったな」
と思います。
◇「本気を出せばすごい」という言い訳
私はいつも、
「本気を出せばできる」
と思っていました。
今はやっていないだけ。
まだ本気を出していないだけ。
本当に取り組めば、きっと人よりもすごいことができる。
そう思いながら、実際には何にも取り組みませんでした。
努力もしない。
練習もしない。
体も鍛えない。
いじめられるのが嫌なら、少しでも体を鍛えればいい。
勉強ができるようになりたいなら、机に向かえばいい。
そんなことは頭ではわかっています。
それでも、自分にとって有利になる方向へ動けませんでした。
◇ 自分の現実を見るのが怖かった?
一般的には、
「本気を出して失敗したら、自分の能力のなさがわかってしまうから」
と説明されるかもしれません。
本当は自分には力がない。
その現実を見るのが怖い。
だから、
「まだ本気を出していないだけ」
という可能性を残しておく。
そうすれば、自分の能力が否定されずに済む。
確かに、そのような面もあるのかもしれません。
でも、私の場合は、それだけではないように感じました。
そこで、いつもの言葉を心の中で唱えてみました。
「私は、誰からも理解されないほどの痛みを、ずっと抱えてきたんだ。」
すると、少しずつ見えてきたものがありました。
◇ 私が感じていたのは「虚しさの痛み」だった
私の中にあったのは、
何をやっても虚しい
という痛みでした。
大人たちは、
「私はこれを成し遂げた」
「こんな仕事をした」
「こんな地位を得た」
と、自慢げに話します。
でも、子どもの頃の私は、その姿を見ながら、
「だから何なんだろう」
と思っていました。
どれほど偉くなっても、
どれほど成功しても、
どれほど多くのものを手に入れても、
最後にはみんな同じように死んでいく。
持っていたものも、
誇っていたものも、
いずれはすべて失われる。
そのことが、私には見えていたのかもしれません。
だから、成功を目指して努力することが、
ものすごく虚しく感じられた。
「すごい人になる」ということ自体が、痛く見えていたのです。
◇「すごい人」が痛く見えた
自分の実績を誇る人。
他人より優れていることを示そうとする人。
評価や肩書きを集める人。
私は、そういう人を見ると、
「痛いな」
と感じていました。
ところが、その一方で、
自分も「すごい人」になろうとしている。
すごくなりたい。
でも、すごくなることは虚しい。
この二つが自分の中でぶつかっていたのかもしれません。
だから私は動けなかった。
「本気を出せばすごい」
という可能性だけを残しながら、
実際には何もしない。
すごい人にはならなくて済む。
でも、自分は本当はすごいのだと思っていられる。
その場所にとどまっていたのです。
◇ セルフネグレクトは、虚しさを感じないためだった
何にも取り組まない。
能力を育てない。
自分を放置する。
それは、単なる怠けではなかったのかもしれません。
すごい人になることの虚しさ。
努力しても、最後にはすべて消えてしまうという痛み。
その痛みに触れないために、私はセルフネグレクトをしていたのかもしれません。
何もしなければ、成功の虚しさにも触れずに済みます。
失敗する必要もない。
努力する必要もない。
ただ、
「本気を出せばすごい」
と思いながら、ソファでアニメを見ていればいい。
それが、私の心を守る方法だったのでしょう。
◇ 冬の冷気にさらされた指先のような痛み
その痛みに気づいてみると、冬のジョギングを思い出しました。
寒い日に手袋をせずに走ると、指先が冷たい空気にさらされます。
最初は冷たいだけです。
でも、やがて強い痛みになります。
痛くて、
「いっそ指を切り落としたい」
と思うほどになることがあります。
私にとって、
「すごい人にならなければならない」
という世界は、それと同じくらい痛かったのかもしれません。
成果を出さなければならない。
価値を証明しなければならない。
人より優れなければならない。
そんな冷たい空気にずっとさらされて、心の指先が痛んでいたのです。
◇ すごい人にならなくてもいい
その痛みに心の温かい手を添えてみます。
「虚しかったんだね」
「すごい人になろうとすることが、こんなに痛かったんだね」
そうやって痛みに気づいてあげる。
すると、少しずつ心が温かくなってきます。
冬の冷気で痛んでいた指先に、血液が戻っていくような感覚です。
そして、ふっと思いました。
私は、すごい人になるために生きなくてもいい。
私は、楽しむために生きてもいい。
何かを成し遂げるためだけに生きなくていい。
誰かに自慢するために、努力しなくてもいい。
ただ、自分が面白いと思うことをやっていい。
楽しいと思うことに夢中になっていい。
◇ 楽しむためなら、動き出せる
「すごくなるために勉強しなさい」
と言われると、心は止まります。
「立派な人になるために努力しなさい」
と言われても、動けません。
でも、
「楽しんでいい」
と思うと、少し違います。
英語を学ぶことそのものを楽しむ。
知らなかったことを知る。
音の響きを味わう。
人と話が通じる面白さを感じる。
そう考えると、自然にやってみたくなるのです。
セルフネグレクトから解放されるというのは、急に努力家になることではありません。
努力しなければ価値がない、という世界から降りることなのかもしれません。
◇ 野の花のように生きる
野の草は、
「誰よりも立派な花を咲かせよう」
とは考えていないでしょう。
成功しようとも、
評価されようともしていません。
ただ、光を受けて、
風に揺れて、
その季節に花を咲かせます。
私も、そんなふうに生きていいのかもしれません。
すごい人になる必要はない。
本気を出して、自分の価値を証明する必要もない。
ただ、
自分が楽しいと思うことをして、
自分なりの花を咲かせていけばいい。
その花が誰かに評価されるかどうかは、関係ありません。
楽しんで生きているうちに、自然と咲いていた。
それでいいのだと思います。
セルフネグレクトを楽しめる人になるとは、自分を粗末に扱うことを楽しむという意味ではありません。
セルフネグレクトを責めるのではなく、
「私は、すごくならなければならない世界が痛かったんだ」
とわかってあげること。
そして、
「私は楽しむために生きていい」
と、自分に許してあげることなのだと思います。
また無意識の旅でお会いしましょう。