こんにちは。

今日も無意識の旅を始めていきます。


セルフネグレクトの呪文シリーズ。


今回は、

「比較の痛みタイプ」

です。


人と比べてしまう。

相手のほうが優れているように見えて、自分をゴミのように感じてしまう。

反対に、相手が失敗したり、みじめな思いをしていたりすると、ちょっと安心する。


そして、そんな自分を見て、

「うわ、性格悪いな」

と、また自分を責める。


比較しては傷つき、

比較しては怒り、

比較しては安心する。


その繰り返しの中で、自分自身をどんどん後回しにしてしまう。


これが「比較の痛みタイプ」のセルフネグレクトです。


そんな私に出てきた呪文が、


「常識と非常識の狭間」


でした。


◇ なんだ、その呪文は

「常識と非常識の狭間」

自分で言っておきながら、

「なんだ、それ」

という感じです。


「落ち穂拾い」のほうが、まだわかりやすかった。


でも、この言葉を唱えていると、不思議と見えてくるものがありました。


私はずっと、

「常識的な人間でなければならない」

と思っていたのです。


世間では何が普通なのか。

この年齢なら、どのくらいできていて当然なのか。

普通の人だったら、どんな仕事をするのか。

どのくらい勉強ができるのか。

どのくらいお金を持っているのか。

そんな「世間一般の基準」を気にして、

そこから自分がどれくらい離れているのかを、いつも測っていました。


だから、人と比較するのです。


◇「私なんて」と思ってしまう

常識という物差しを当てると、

「私なんて」

となります。


あの人はちゃんとしている。

あの人は努力している。

あの人は成功している。

それに比べて私は……。


そうやって、自分をどんどん小さくしていきます。


そして、

「やっぱり私は価値がない」

と、自分をネグレクトする。


ところが。

ここで「常識と非常識の狭間」と唱えてみると、妙なことに気づきました。

「あれ?」

「私、本当に常識的なのか?」


◇ 私、かなり非常識だった

常識的に考えたら、

認められたいなら努力すればいい。

勉強ができるようになりたいなら、勉強すればいい。

何かを身につけたいなら、練習すればいい。


普通の話です。


ところが私は、やらない。


「本気を出せばすごいんだ」

と思いながら、努力しない。


「ちゃんとやればできる」

と思いながら、ギリギリまでやらない。


人と比較して、

「あの人はすごい。私はダメだ」

と言っているくせに、

その人と同じように努力するわけでもない。


いやいやいや。


全然、常識的じゃないじゃん。


そう思ったら、ちょっと笑えてきました。


◇ 常識を気にする非常識な私

面白いのはここです。

私はものすごく常識を気にしている。

でも、自分自身はかなり非常識。


つまり、

常識と非常識の両方が、私の中に存在していた

ということです。


私はずっと、

「どちらかでなければならない」

と思っていました。


常識的で正しい人になる。

あるいは、

非常識な自分を恥じる。


でも、そうではなかったのかもしれません。


常識もわかる。

非常識もわかる。


そして、その二つの間を自由に行ったり来たりできる。


それが私だったのです。


◇「非常識」は欠点ではなかった

ここで、さらに面白くなってきます。

普通の人が、

「それはやらないでしょう」

というところへ行ってしまう。


普通なら、

「そんなこと考えないでしょう」

ということを考える。


常識の外へ、ふっと出てしまう


それを私はずっと、

「社会性がない」

「変な人」

「おかしい」

と考えていました。


でも、もしかすると、それは欠点だけではないのかもしれません。


誰も行かないところへ行くから、新しいものが見える。

誰も結びつけないものを結びつけるから、面白い発想が生まれる。


常識の中だけにいたら見えないものを、非常識の側から見ることができる


そこに、自分のオリジナリティーが育っていたのかもしれません。


私はそれを、

ちょっと大げさに言えば、

「天才性の種」

みたいなものなのかな、と思ったりします。


これは「自分は天才だ!」と自慢する話ではありません。

ナルシシズム云々の話でもありません。


ただ、

「自分の中には、常識と非常識の両方がある」

と認める話です。


◇ 比較している私って、すげえ

そうすると、人と比較している自分の見え方まで変わってきます。

以前だったら、

「また比較してる」

「性格悪いな」

「嫉妬してる」

と、自分を責めていました。


ところが、

「常識と非常識の狭間」

と唱えていると、

「おお、また比較してる」

となります。


そして、

「こんなふうに比較して安心してる私って、すげえ」

と思えてくる。


比較をやめようとするのではありません。

嫉妬をなくそうとするのでもありません。

そんなことまでして、自分を守っている私。

そこまで繊細に世の中を測っている私。

「私って、なかなか面白いことやってるじゃん」

と思ってみる。


すると、不思議と比較の苦しさが薄くなっていきます。


比較してもいい。

嫉妬してもいい。

安心してもいい。

そんな自分も含めて、


「これが私なんだ」


と思えるようになる。


◇ 催眠のお師匠さんのカラオケ

この呪文を唱えていると、なぜか催眠のお師匠さんのことを思い出しました。

あるとき、みんなでカラオケに行ったんです。


誰かが普通に歌っている。

すると、お師匠さんが突然、その人からマイクを取り上げました。


そして何をするかと思ったら、

歌わない。

歌詞を、

お経のように、

ひたすら読み上げ始めたのです。


みんな、

「……え?」

です。


完全に引いている人もいる。

大笑いしている人もいる。

でも、お師匠さんだけはものすごく楽しそうなんです。


常識的に考えたら、

人が歌っているマイクを取り上げて、

歌詞をお経のように唱えるなんて、

かなり非常識です。


でも本人は、そんなことを一切気にしていない。

ただ楽しんでいる。


私はその姿を思い出して、

「ああ、これなんだ」

と思いました。


◇ 藤井風くんと、催眠のお師匠さん

そこからなぜか、

藤井風くんと催眠のお師匠さんが頭の中に並びました。

片や、素晴らしい歌声と音楽性で人を魅了する人。

片や、カラオケのマイクを奪って歌詞をお経のように唱える人。


普通なら、

比べる対象ですらありません。


でも、

「常識と非常識の狭間」

から眺めてみると、

どちらも面白い。

どちらも、その人にしかできないことをやっている。


すると、

「誰のほうが上なのか」

という比較そのものが、なんだかどうでもよくなってきます。


◇ 比較から、オリジナルへ

比較しているとき、私たちは一本の物差しの上にいます。

誰が上。

誰が下。

誰が優秀。

誰が劣っている。


でも、

常識と非常識の狭間へ行くと、その物差し自体がなくなります


藤井風くんと、

歌詞をお経のように唱える催眠のお師匠さんを、

同じ一本の物差しで測ることなんてできないからです。


だったら私も、

誰かと同じ物差しの上に乗らなくてもいい。


常識の私もいる。

非常識の私もいる。


その間を自由に行き来しながら、

自分にしかないものを楽しめばいい。


比較してしまう自分さえ、

その材料にしてしまえばいい。


今日の呪文は、


「常識と非常識の狭間」


です。


人と比べて、

「私なんて」

となったとき。


嫉妬して、

そんな自分を嫌いになりそうになったとき。


誰かが失敗して、ちょっと安心している自分を見つけたとき。


「常識と非常識の狭間」


と唱えてみる。


すると、

「こんな私も面白いじゃん」

と思える場所が、どこかに見つかるかもしれません。


そしてそこから、

誰かと比べるためではない、

自分だけのオリジナルな道が始まっていくのだと思います。


また無意識の旅でお会いしましょう。