休みの日は、何もしなくていい ――無意識で休むという自由
こんにちは。
今日も無意識の旅を始めていきます。
先日お休みをいただきました。
「よし、休みだ!」となる。
すると、頭の中では、
いろいろなことを考えるんですよね。
「あれもやろう。」
「これもやろう。」
「あれも片づけたい。」
「これも書きたい。」
せっかくの休みなんだから、
時間を有効に使おう。
そう思う。
ところが、できない。
笑ってしまうくらいできないんです。
◇頭が、まったく働かない
何かをやろうとすると、
ものすごい抵抗感が出てきます。
「うわ、嫌だ。」
となる。
頭に、重たいものが乗っているような感じ。
「これくらいやればいいじゃない。」
と自分でも思う。
他人から見たら、もっとそう思うでしょう。
「やればいいじゃん。」
でも、違うんですよね。
本当に、できないんです。
頭が動かない。
身体も動かない。
「生産的なことをしなきゃ」
と思えば思うほど、「嫌だ!」となる。
面白いですよね、人間って。
◇ ところが、休んでいると……
仕方がないので、休みます。
ゴロゴロする。
何もしない。
また休む。
するとしばらくして、少し変化が起きてきます。
「ん?」となる。
「これ、ちょっとやってみようかな。」となる。
さっきまで、あれほど嫌だったのに。
「お、やれるかも。」
という感じになってくる。
私の感覚では、
パンパンだった脳の中に、少しずつ、
空き容量ができてくるような感じなんです。
◇ パンパンだったものが、空いてくる
最初は、頭の中に何かがぎっしり詰まっている。
新しいことを入れようとしても、入らない。
考えようとしても、動かない。
でも、休んでいると、少しずつ余白ができてくる。
そして余白ができたところで、
「やってみようかな。」
という気持ちが自然に出てくる。
この「自然に出てくる」というのが面白いんですよね。
◇ 私はこれを「脳の炎症」というナラティブで見ている
私は、この感覚を理解するときに、
「脳の中が炎症でいっぱいになっている」
というナラティブを使うことがあります。
もちろん、「頭が働かないから脳に炎症が起きている」と医学的に判断できる、
という話ではありません。
ただ、疲れ切っているときには頭が働かない。
意欲が出ない。
何かを始めようとしても、ものすごい抵抗感がある。
そして十分に休んでいくと、
少しずつ「やってみようかな」が戻ってくる。
私にはその感じが、炎症が静まって脳に余白が戻ってくるように感じられるんです。
◇ でも、もっと面白いことに気づいた
そこでふと思ったんです。
「そもそも、なんで休みの日に何かしなきゃいけないんだ?」
と。
休みなんですよね。
休みなのに、
「あれもやらなきゃ。」
「これもやらなきゃ。」
「時間を無駄にしちゃいけない。」
「せっかくの休みなんだから、
有効に使わなきゃ。」
となる。
これ、誰が言っているんだろう?
◇ 休んでいると、掃除機がやってきた
そこで、昔のことを思い出しました。
子どもの頃、休みの日にゴロゴロしている。
すると、母親が言うんです。
「いつまでダラダラしてるの。」
そしてなぜか、掃除機をかけ始める。
ガーッ!ガンガンガン!
こちらが寝転がっているところへ掃除機がやってくる。
「うるさいなあ」と思っていると、
「あんたも掃除機かけなさいよ」と言われる。
「いやー・・・」となる。
休みの日なのに、休んでいるとなぜか罪悪感が湧いてくる。
◇「休んでいる私はダメ」
こういう経験が積み重なると、
いつの間にか自分の中に、誰かの目線が入ってきます。
ゴロゴロしている。
すると、誰もいないのに、
「いつまでダラダラしてるの」
という目線を感じる。
昼寝する。
「時間を無駄にした」
何もしない。
「今日一日、何もできなかった」
休んでいるだけなのに、評価されている。
しかも、評価している人はもう目の前にはいません。
自分の中にいるんです。
◇「時間を有効に使う」は、誰のため?
「時間を無駄にしない」
「有効に使う」
これって一見すると、ものすごく立派です。
でも私の場合、そこをよく見ていくと
他者の目線が入っていることに気づきます。
「今日はこれだけできました。」
だったら、胸を張れる。
「休みの日も、こんなに生産的でした。」
だったら、誰かに認めてもらえる。
逆に一日中ゴロゴロしていたら、
「私は今日、何もしていません」となる。
まるで、存在価値が下がってしまうような気がする。
ああこれも、人のために生きていたんだな、と思うんです。
◇ 身体は休んでいても、頭の中では働いている
だから休みの日に、身体は横になっていても、
頭の中では、ずっと働いています。
「そろそろ起きなきゃ。」
「何かしなきゃ。」
「今日が終わっちゃう。」
「せっかくの休みなのに。」
「もったいない。」
休みながら、自分を監視している。
休みながら、自分を急かしている。
休みながら、自分を採点している。
これではなかなか休めません。
◇「こんなに休んでる私って、すげえ」
そこで出てくるのが、
これまで何度も使ってきたあの言葉です。
一日中、ゴロゴロしている。
そこで、
「こんなに休んでる私って、すげえ。」
と言ってみる。
何もできなかった。
「何もしないでいられた私って、すげえ。」
昼まで寝た。
「こんなに眠れた私って、すげえ。」
すると、休んでいる自分をもう攻撃しなくてよくなる。
◇「他者受容」から「自己受容」へ
私はこれを、「他者受容」と「自己受容」というイメージで考えています。
他者受容では、「人から見て、私は何をするべきか」を考える。
ちゃんとしなきゃ、生産的でいなきゃ。
役に立たなきゃ。時間を有効に使わなきゃ。
でも、自己受容では、
「今の私は、何を求めているんだろう?」となる。
眠い。じゃあ、寝る。
何もしたくない。じゃあ、何もしない。
ぼーっとしたい。じゃあ、ぼーっとする。
そこに、「正しい休み方」はありません。
◇ 休むことまで、管理しなくていい
セルフケアというと、
つい、「ちゃんと休みましょう」となります。
すると、また始まるんですよね。
「質の高い睡眠を取らなきゃ」
「休みの日には運動して」
「自然に触れて」
「スマホを見ないで」
「リフレッシュして」・・・
いつの間にか、休むことまで仕事になっている。
これでは休めません。
セルフケアまで他者受容になってしまいます。
◇ 無意識で休む
だから私は、
「無意識で休む」
というのがいいんじゃないかな、と思います。
頭で、「これが正しい休み方だ」と決めない。
無意識に委ねる。
眠かったら寝る。
ゴロゴロしたかったらゴロゴロする。
何も考えたくなかったら、何も考えない。
そして、
「そろそろ動きたいな」
という感じが出てきたら、動く。
◇「やらなきゃ」が、「やりたい」に変わる
ここが面白いところです。
ちゃんと休むと、ある瞬間、
自然に、「やりたい」が出てくる。
「あれ、ちょっと書きたいな。」
「あそこ、片づけようかな。」
「これ、やってみようかな。」
昨日までの、「やらなきゃ」とは全然違います。
誰かに追い立てられている感じがない。
自分を鞭打つ必要もない。
気がついたら、動いている。
そして不思議なくらい、あっという間にできてしまったりする。
◇ 休むことと、動くことは反対ではなかった
以前は、休むことと行動することは、
反対だと思っていました。
休んだら何もできない。
頑張ったら、何かできる。
だから、休んでいると不安になる。
でも、もしかすると違うのかもしれません。
十分に休むことによって、自然に動けるようになる。
休むことも、動くことも、同じ無意識の流れの中にある。
そう考えると、「いつまで休んでいていいの?」
と心配しなくてもよくなります。
動くときが来たら動く。
◇ 人のために生きることから、無意識で生きることへ
この3か月、セルフネグレクトについて書いてきました。
人の機嫌を考える。人の期待に応えようとする。
人を助ける。人の罪まで背負う。
正しい世界を作ろうとする。
そして、
セルフネグレクト編が終わって休んでみた。
すると、まだいました。
「休みの日を有効に使いなさい」
という他人の目線が。
いやあ、しぶといですね。
でも、それに気づく。
「ああ、また人の目線で自分を動かそうとしているんだな」と。
だったらもう一度、無意識に委ねてみる。
◇ 休んでいる私も、無意識に支えられている
何もしていないように見えても、
身体は、何もしていないわけではありません。
呼吸している。心臓が動いている。
身体の中では、さまざまな調整が続いている。
意識が、「何もしていない!」と焦っている間にも、
無意識は、淡々と働いている。
そう考えると、休んでいる時間も無駄ではないんですよね。
いや、そもそも「無駄かどうか」を判断しなくてもいいのかもしれません。
◇ 無意識で生きる
休みたいときには、休む。
動きたいときには、動く。
何もしたくないときには、何もしない。
そして何かをやりたくなったら、やる。
「人から見て正しい私」を動かすのではなく、
自分の中から自然に動き出すものに、任せてみる。
すると人生は、意外とちゃんと動いていく。
むしろ、自分で無理やり動かそうとしていたときよりも、
ずっと軽やかに動いていくのかもしれません。
無意識で休む。
そして、無意識で動く。
そこには、「何かをしなければ存在してはいけない」
という世界とは違う、静かな自由があります。
何もしない私も、すげえ。
やりたくなって動き出した私も、すげえ。
どちらも同じ私。
そのまま、無意識に委ねて生きていく。
そこに、本当の自由があるのかもしれません。
また無意識の旅でお会いしましょう。