「正しいか、間違っているか」から自由になる ――白黒思考と存在の罪悪感
こんにちは。
今日も無意識の旅を始めていきます。
今日は、
「白黒思考」
について書いてみたいと思います。
白黒思考というのは、
「白か、黒か」
「正しいか、間違っているか」
「いいか、悪いか」
というように、物事を二つに分けて考えてしまうことですね。
「ゼロ100思考」なんて呼ばれることもあります。
◇「どっちでもいい」が難しい
たとえば、仕事でミスをした。
すると、「ここを間違えた」
ではなく、
「私は仕事ができない」
となる。
人からちょっと嫌な顔をされた。
すると、「今日は機嫌が悪いのかな」
ではなく、
「私は嫌われている」
となる。
逆に、自分が正しいと思ったら、
「相手が間違っている!」
となる。
その中間がない。
本当は、
「ちょっと正しいけど、ちょっと間違っている」でもいい。
「よくわからない」でもいい。
「今日は決めなくてもいい」でもいい。
でも、それが難しい。
◇ 曖昧さに耐えられない
自閉スペクトラム症などについても、
認知的柔軟性や曖昧さへの対処の難しさが語られることがあります。
神経科学では、GABAなどによる抑制系と、
グルタミン酸などによる興奮系とのバランスについても研究されています。
ただし、「白黒思考はGABAの問題で起きる」と単純に言えるわけではありません。
そこで、ここからは私なりのナラティブとして考えてみます。
もし神経の興奮に、適切な「抑制」が入らなかったら?
「正しい!」
となったときに、
「まあ、完全に正しくなくてもいいか」が入らない。
「間違っている!」
となったときにも、
「まあ、間違っていてもいいか」が入らない。
すると、
正しい!
間違っている!
正しい!
間違っている!
と、両極端の間を行ったり来たりする。
そんなイメージです。
◇ でも、もっと奥に何かがあるとしたら?
ここで私は、もう一つのことを考えます。
それが、「存在の罪悪感」です。
これは、何か悪いことをしたから感じる罪悪感ではありません。
「私がここにいて、申し訳ない」
「私が生まれてきて、申し訳ない」
「私が存在することで、誰かに迷惑をかけている」
というような、存在そのものについての罪悪感です。
これは、私が臨床や自分自身を理解するために使っている一つのナラティブです。
◇ いつも責められているような感じ
「存在の罪悪感」があると考えてみると、
白黒思考がちょっと違って見えてきます。
何も言われていないのに、責められているような気がする。
誰かがため息をついただけで、
「私?」となる。
誰かの機嫌が悪いだけで、
「何か悪いことした?」となる。
仕事で何か指摘されると、
単なる修正ではなく、自分の存在そのものを否定されたように感じる。
すると心の中では、ずっと裁判が開かれることになります。
◇「私は間違っていない!」と証明し続ける
責められている。
だったら、反証しなければいけない。
「私は間違っていません!」と。
だから、正しいか間違っているかが、ものすごく重要になる。
「どちらでもいい」では困るんです。
だって、自分が間違っていたら、
「やっぱり、私はここにいてはいけない」になってしまうから。
そう考えてみると、白黒思考は単なる「頭の固さ」ではなくなります。
もしかすると、
「自分がこの世界に存在していいことを証明し続けるための思考」だったのかもしれません。
◇ 正しくあろうとするほど、苦しくなる
ところが、これが面白いんです。
「私は正しい!」
と強く思えば思うほど、
世の中からは、必ずと言っていいほど反証がやってきます。
「いや、こういう見方もありますよ。」
「それ、違うんじゃないですか?」
「この場合は、当てはまりませんよ。」
斜め上から、思ってもみなかった反論が飛んでくる。
「えー!」となる。
そこで、さらに証明しようとする。
「いや、私は間違っていない!」
すると、また反証が来る。さらに正しさを証明する。また反証が来る。
終わらないんです。
◇ 本当に証明したかったもの
でもそこで、ふと気づく。
私は、何をこんなに必死になって証明しているんだろう?
本当に証明したかったのは、自分の意見の正しさではなかったのかもしれない。
「私はここにいていい」
ということだったのかもしれない。
私は間違っていない。
だから、ここにいていい。
私は正しい。
だから、存在していい。
ずっと、それを証明しようとしていた。
もしそうだったとしたら、疲れますよね。
人生そのものが、ずっと裁判になってしまうから。
◇「ああ、存在の罪悪感なんだ」
そこで何かについて、「絶対にこっちが正しい!」
となったときに、ちょっとだけこう思ってみる。
「ああ、存在の罪悪感が痛いのかもしれないな」
「私は、自分がここにいていいことを証明しようとしているのかもしれない。」
正しさを無理やり手放す必要はありません。
「白黒思考をやめなきゃ!」
とする必要もありません。
だってそれをやった瞬間、今度は、
「白黒思考=悪」になってしまいますから。
また、白黒思考です。
◇ 白黒思考をしている私って、すげえ
だから、
「あ、また白黒になってる。」
でいい。
そしていつものように、
「こんなに正しさを証明しようとしている私って、すげえ」でもいい。
それだけ必死に、自分が存在していい世界を作ろうとしてきた。
「私は間違っていない!」と、一生懸命自分を守ってきた。
そう思ってみると、白黒思考そのものを責める必要がなくなってきます。
◇ 白と黒の間に、世界が広がってくる
すると不思議なんです。
白か黒かを、決めなくてもよくなってくる。
「まあそういう考えもあるか」となる。
「私が間違っているかもしれないし、相手が間違っているかもしれない」となる。
さらには、
「どっちでもいいか。」
となる。
これ、すごい自由なんですよね。
白と黒しかなかった世界に、グレーが現れる。
でも、そのグレーも決めなくていい。
赤でも青でも、黄色でもいい。
いや、そもそも色を決めなくてもいい。
◇ ちゃらんぽらんに生きていい
そして最後に出てくるのが、私の好きな感じです。
「ちゃらんぽらんでいいじゃん」
正しくなくてもいい。
間違っていてもいい。
わからなくてもいい。
途中でもいい。
昨日と言っていることが、ちょっと違ってもいい。
「まあいっか」となる。
あれ?こんなに楽なんだ。
これまで、「正しくなければ!」と力いっぱい握りしめていた手を、ふっと開く。
すると世界は、何も壊れない。
それどころか、自分の周りにずっと広い世界があったことに気づきます。
◇ 正しさよりも、自由へ
「正しいか、間違っているか」を考えることが悪いわけではありません。
必要なときには、考えればいい。
でも、自分が存在していいことまで正しさによって証明しなくてもいい。
私は、正しくてもここにいていい。
間違っていても、ここにいていい。
わからなくても、ここにいていい。
ちゃらんぽらんでも、ここにいていい。
そう思えたとき、白黒の間にものすごく広い世界が見えてくる。
そしてその世界を、無意識と一緒にふらふら歩いてみる。
ちゃらんぽらんって、こんなに楽だったんだ。
そんなことに気づけたら面白いですね。
また、無意識の旅を楽しみにしています。