本物の「国宝」に家族の病状説明をする機会があった時に、後で「あいつ、同じ話を繰り返していて馬鹿なのか?」と国宝から言われてしまった(あちゃ〜!)。いやいや、丁寧に説明をしなきゃ、と思ってしまって。そして、ちゃんと私の説明が伝わっている感じがしなかったので、手を替え品を替え、説明していたんです。

 

私からしたら、別に同じことを繰り返していたわけではなくて、病状のいろんな側面からご説明をさせていただいていたのですが、一般の人からしたら「同じ病気の説明」ですから「同じ話を繰り返している」としか聞こえない。

私は「ちゃんと家族の病状を知ってもらいたい」と丁寧に話をしていたつもりなのですが「あいつ、馬鹿なの?」と言われてしまって、国宝にお近づきの機会を失ってしまった(あはは〜)。

 

まあ、このブログでもやっていますけど、私の説明がくどいのよね。

私はみなさんに理解してもらいたいがために、いろんな側面から書いているのですが「文章がくどい!」って思われてしまうのよね。

 

そう、話をしていても「ちゃんと理解してもらえていないかもしれない」と説明が長くなってしまいます。

ちゃんとそこに至る経緯まで説明しなければ、と思って細かい状況まで説明してしまうと「どんどん相手の顔が曇っていく」ってなってしまいます。すると私は「私の説明の仕方が悪いのでは?」と思ってさらに細かく説明をしてしまうから、相手の顔が能面のようになっていく、となることがある。相手が脳面のような表情になったから「私って嫉妬されている」って私は勝手に解釈しちゃいます。でも、実際は「この人の話が長くてしつこい!」ということで相手は興味を失って脳面のような顔になっているだけ。

 

こんな時に「そこに美しさを見出す」と唱えてみると「要点だけ伝えて相手の話を聞いていた方が美しい」と思えてくる。

 

「私は、説明が下手で頭が悪いから相手にちゃんと私の話が伝わらない」と思っているから「丁寧に話をしなければ」と思っているのが表面的なこと。その内面では「自分は相手よりも優れているから、相手が分かるように噛み砕いて説明しなければ」という上から目線の私も同時に存在しているんです。

 

動物の頭の中って面白くて「右に曲がる」と思った時に、同時に反対の「左に曲がる」という神経も興奮しています。

それと同じように「自分は劣っている」と思えば思うほど、反対の「私はみんなよりも優れている」という神経が興奮している。

 

「自分はみんなよりも劣っている」と思えば思うほど「みんなよりも私は優れている」となるから「私の話は高尚でわかりづらいから丁寧に説明してあげなければ」と上から目線になってしまう。

 

「そこに美しさを見出す」を唱えると、「相手の理解力を信頼できる私は美しい」となって「要点だけでいいや!」となるわけです。

そう「そこに美しさを見出す」を唱えると、他者を信用して認める、という社会性が取り戻せる。すると、信頼関係が構築されて「人脈が広がるかも!」ってなるのよね。

 

ギフテッドの人たちの「自分の能力を過小評価しちゃう」という症状は「そこに美しさを見出す」で変わっていきます。

そして、自分との関わり方、そして他者との信頼関係が変わって、豊かになっていきます。