私は子供の頃から「なんのために勉強するの?」ということが分かりませんでした。

働くようになってお金の計算ができなかったら困るでしょ!だから算数を勉強するの、と言われても「だって電卓があるじゃない!」と思ってしまうから、やる気にならない。

なんでそんな面倒くさいことをいちいち勉強しなきゃならない、と漫画の世界の方が楽しく思えていたんです。

まあ、よくよく考えてみると「勉強しなさい」と言っている親が「お金がない」と常に困窮しているわけです。

「だったら勉強したって意味ないじゃん!」ってなりますね(子供はそんなことに気付けないけど、矛盾は感じていたんだろうな)。

 

「お金がない」を連発してくれる親から離れた学校で勉強をし始めた時、初めての成績はCでした。

その時に「悔しい!」って初めて思ったのよね。なんでアホなアメリカ人よりも私の成績は低いんじゃ〜!って(あはは!言っちゃった!)。いや、あなたの高校の時の成績は赤点ばかりじゃなかった?とその時の私にツッコミを入れたい。

でも、その時に「私の中にあるギフト(才能)を成績として証明したい!」と純粋に思えたのは「お金がない」からのうつ症状から解放されたから。

それから私は「成績を上げる」というよりも「数字を上げる」ということが楽しくなってきます。それまでは、先生や周りの生徒からの評価ばかりを気にして「全然勉強に集中できない!」となっていた。そこから解放されてみると「勉強、めちゃくちゃ楽しい!」ってなっていた(多分、あの時の勉強が辛すぎて記憶が美化されているかも💦)。

 

面白いのは、勉強ができなかった時は「正しい勉強の仕方の本」とか読んで「どうして私はちゃんと勉強ができないんだ!」とか「みんなと同じことが覚えられない!」って自分にダメ出しばかりしていました。

でも「自分のギフト(才能)を成績で見てみたい!」と思った時に、私は成績を上げるために手段を選ばなくなります。

クラスで成績がいいやつの近くに座って、とにかくそいつの真似をして勉強をする。わからないことがあったら、とことん調べ倒す。プライドなんて捨てて、勉強できるやつに頭を下げて勉強を助けてもらっていたな。

成績の数字が私の才能だとしたら「できる or できない」とか「覚えられる or 覚えられない」なんて全く気にしなくなって

「とことんまでやるしかない!」って手段を選ばずやってみると「勉強ってこんなに楽しいんだ!」ってなっていた。

 

日本に帰ってきたら「自分の才能を仕事で証明する」と思っていたけれど、いつの間にか私は「人からの評価で証明しよう」となってしまいます。

「いい仕事をしていれば必ず上司が認めてくれるはず」と思って頑張ると、周りの人たちから嫉妬されて嫌がらせをされて「こんなところやめてやる!」っていうことを繰り返していました。

正しいことをしていたら、必ず誰かが認めてくれて、私を底辺から引き上げてくれる、と思って頑張るのですが、誰からも認められず無視された状態になるので全く楽しくなくなって「もう続けられないかも」と諦めてしまう。

 

そんな私が「そこに美しさを見出す」を唱えてみると、「あれ?数字が美しいんじゃん!」と学生時代のことを思い出します。

私は、これまで内側にあった才能(真珠)という異物で苦しんできた。その真珠に価値があれば、私の苦しみは報われるけど、それは人によって価値が見出されるものではない。

学生時代は「自分の内面の美しさを数字で証明するぞ!」ってなっていたのよね、と思い出します。

「そこに美しさを見出す」を唱えた時に、「数字を追っているのが美しかった」と手段を選ばなかったあの頃の楽しい感覚が蘇ってきます。

そう、自分の内面にある真珠の価値を数字で見るために「そこに美しさを見出す」を唱える。

すると真珠の価値の数字を上げるために手段を選ばず楽しむことができるようになります。