私はちょっとしたことで「が~ん!」とショックを受けて傷ついてしまいます。

昔、同僚から「大嶋さんってナイーブですね」といわれて、それに対しても「私って、そんな風に見られているんだ」とショックを受けちゃった。近所の人に挨拶をしたのに、挨拶が返ってこないだけでも「が~ん!」とショックを受けてしまって、気持ち的には「もう私はここに住みたくない」とまで落ち込んでしまいます。

「なんで、そんなちっぽけなことで傷つくの?」と自分でも思うんです。そんなことどうでもいいじゃない!と思いたいけど、それができない。その仕組みが面白い。

 

学生時代に心理学を勉強していて「20歳までに人の特徴は設定されてしまう」というのを習って「そんなことはないだろ!」と反発していました。

特にフロイトおじさんの1歳ごろまでの肛門期と呼ばれる時期でお母さんから冷たくされてトイレを失敗してしまうと「依存的、常に人に頼り自主性がなく社交的、寂しがり屋で孤独を恐れる」とあって「そんなわけないだろ!」と鼻で笑っていました。

でも、よくよく考えてみたら「あれ?子供の頃に母親から私はしょっちゅうあんたは依存的って言われていたな」と思い出すわけです。そしてちょっとのことで傷ついてしまって、ものすごい孤独を感じてしまう。

 

最近の研究(2022年、筑波大学、慶応義塾大学、東北大学「挑発を受けると攻撃的になる脳内の仕組みを解明」)で、「あぁ!フロイトおじさんが言っていたのはこれのこと!」ということがやっと理解できます。

外側手綱核は主に負の常道やストレス応答に関与する脳の部位になります。もしかするとこの部位がフロイトの言うとおり1歳までに決まってしまう。

私の場合、1歳までに砂嵐になったテレビの前でずっと放置されていた、ということがありました(昔はある時間になると番組が終了してテレビ画面が砂嵐状態になっていた)。お母さんから抱きしめてもらってミルクをもらう必要がある時期に放置されていた。この時、私は「ギャ~~~!」と泣き続けていたわけです。泣いているとき、脳内はグルタミン酸の興奮が起こっていて、それを収めようとするGABA受容体が活発になっている。赤ちゃんの私が母親から放置される、それを繰り返すことでGABA受容体がダウンレギュレーションを起こしてしまって「興奮が治まらない!」となるのですが、そんな繰り返しにより、肛門期に外側手綱核の設定が決まってしまい「ちょっとの刺激でもものすごく見捨てられ不安を感じてしまう!」となってしまう(すべてナラティブで書いています)。

 

私のナイーブとは、外側手綱核のGABA受容体がダウンレギュレーションを起こしているので、ちょっとの刺激で興奮が治まらなくなって「いつまでも不快な感情が消えず、この世の終わりのような苦痛を感じる」となっています。

 

私はずっと「情けない弱虫で、すぐに傷つくダメ人間」と思っていたのですが、こんな風に考えてみると「あぁ!見捨てられ不安脳(外側手綱核)のGABA受容体がダウンレギュレーションを起こしているからものすごい苦痛を感じてしまうんだ!」というのが見えてきます。

 

母親から「あんたは依存的!」と子供の頃ディスられていたけど「それってあなたのおかげじゃないですか!」とツッコミを入れたい。

 

精神分析家のユングさんは、アルコール依存症のボブに、アルコールからの回復の唯一の望みは「霊的な体験」、すなわち「根本的な人格の変容」と言っていました。そりゃそうだよね!と依存的な私は思うわけです。何故なら、外側手綱核が発達する時期にGABA受容体がダウンレギュレーションを起こしてしまっていて、それを元に戻す術がないのですから。

 

人から冷たくされて見捨てられ不安を感じた時に「そこに美しさを見出す」と唱えてみると、「自分か感じている痛みは美しい」と思えるから不思議。

確かに、文学の中で主人公が感じているであろうように、苦痛は非常に美しい、って感じられる。

でも、自分の苦痛だと醜くて忌み嫌うべきもの、と思っていた。心的苦痛が美しいのであったら、これまでどれだけ私は美しい体験をしてきたのだろう、と思って見ると面白い。人からナルシストと思われて気持ち悪がられる、と思っていたから、そこに美しさを見出せなかったのかもしれない。人のちょっとした言葉で傷ついて涙する、そんな姿が文学の中にあったら「美しい」って思えるのに。

 

「そこに美しさを見出す」を唱えてみると、GABA受容体のダウンレギュレーションが修復されて、本来の自分の姿に戻っていきます。

 

そう、本来の自分の姿は美しい。