ふと振り返ってみると「あれ?子供の頃の私って全然競争心がなかったかも!」って思うんです。小学校の漢字のテストもビリで、九九の計算でも「誰よりも遅い!」ってなっていました。 

親から「あんた、悔しくないの?」と言われても「全然悔しくない!」ってなっていたのは、心の中で「私は誰よりもすごいんだ」という根拠のない自信があったから。 

周りの子達から、馬鹿にされても、いじめられても、先生から呆れられても「私は本当はすごいんだ」と思っていたのは何も成し得ていないのに根拠がない自信があったから。

 

この根拠のない自信は、現代の脳科学で見れば「孤独になればなるほど、期待脳(腹側被蓋野)が活発になって自分への期待値が上がってしまう!」となっていたから。 

いじめられて、仲間外れにされて、自分だけみんなよりも何もできてない、という「孤独」で期待脳が刺激されて「自分への期待が止まらない!」ってなって「私って本当はすごいんじゃ!」となってしまう。 そして私は「いつか本気を出して素晴らしい才能を発揮する!」と浦島太郎のようになってしまった(あはは〜!まだ31歳ですけどね)。

 

私が期待脳の影響で「私はすごいんじゃ!」と孤独の中思っていると「人に対してのダメ出しが止まらない!」となってしまいます。 

なぜならば期待脳の力で「私は誰よりも優れている」となってしまうから「みんな私よりも下!」という認識になるから。だから、相手の優れたところを認めたり尊敬したりするんじゃなくて「それってたまたまじゃない!」とか「そりゃ、恵まれた家庭環境で育っていて、塾に行っていたらそれくらいの成績が取れて当たり前じゃない!」と心の中で人に対する批判が止まらない。

 

そんな私がふっと我に帰ってみると「私には何もない!」という現実が。 友達もいないし、成績も最下位だし、先生からも嫌われている。 部活もまともにできないし、人と会話も続かない、異性とだってまともに話をすることができない。 

いや、本当に私って最低な人間じゃない!と孤独を感じれば感じるほど期待脳が孤独に刺激されて「でも、私が本気を出したらすごいんだ!」となってしまう。

 

なんで、こんなことを書いているかというと「あいつに負けたくない!」とか誰かをライバル視することができたら、もっと勉強とか、部活とかに集中することができて、違う人生を歩んでいたんだろうな〜、って最近しみじみ思ったから。 いつも「誰からも理解されない」という孤独の中で期待脳が働いてしまうから「理解しない周りの人間が悪いんじゃ〜!」となってしまって、誰も尊敬することができなかったから。 

誰かを尊敬できて、ライバル視できたら全然違った人生になっていたのに、とものすごく後悔しちゃう。

 

こんなダメダメな私が、催眠のお師匠さんに催眠スクリプトを読んでいただいて、眠ってしまったら「ある時から、ライバルは自分」と思うようになっていた(あのお師匠さんのスクリプトはどんな仕組みになっていたんだろう?)。 「今の私への期待を軽く裏切ってやる!」って、今の自分が「悔しい!」と思うようにやってやるぜ!と今の自分がライバルになっていた。 

そう、今の自分は「私はやればすごいんだ!」と思いながら「何もやらないで無駄に時間だけが過ぎていく」というのを知っている。 そんな自分の期待を裏切って「えぇ〜い!床に溜まっている埃を掃除してやれ!」と自分をライバル視して、それを軽く超えてやろうと行動することができる。

 

本を読んでいて「うわ〜!なんだか、この本読み続けるのが面倒くさくなってきた!」という時に「いつもだったら、途中で投げ出して読まなくなる私」への期待を裏切って読み続けたくなるのは、今の自分をライバル視しているから。 今の私よりもさらに面白い私になってやる、と今の私をライバル視することで軽くそれまで越えられなかった壁を越えることができるから「ライバルがいるってすごいんだ!」ということが実感できちゃう。

 

「こいつには絶対に負けたくない!」という相手が現在の私。 そして現在の私への期待を軽く越えられた時に「気持ちがいい!」ってなってやる気が増すのと同時に、さらに、現在の私を越えたくなってくる。

 

そうなのよね!こんなにライバル関係が楽しいんだったら、もっと子供のうちにやっておけばよかった、とちょっと後悔しちゃう。 

でも、今、ここに、長年期待し続けてきた期待のホープが私のライバルになってくれたからこれはこれでいいのかもしれない。 私のライバルと共に、そこに美しさを見出す喜びを感じることができる。