人の欠点ばかり見えてしまう私の、意外な正体
「なんで私は子供の頃から人の真似をしなかったんだろう?」と私が過去を振り返ってみると、面白いことが見えてきます。キリスト教の教会でピアノを習っていた時に、私は「先生と手の大きさが違うから、先生と同じ指の動きができない」と幼い頃から言い訳をしていました。ちょっと手が大きくなったら「ピアノの先生は指が開くように訓練しているけど、私はしていないから指の動きを先生が言った通りにできない」と言い訳して自分のオリジナルのやり方をしてしまい「うまくできない!」って練習を投げ出してしまう。私にとって「人から教えてもらう」ということは「社会的刺激」になっていて「相手から責められる」とか「相手から攻撃される」などと身構えてしまうから「言い訳」で自分を守るということをしていたんです。これが「見捨てられ不安脳(外側手綱核)」のGABA受容体がダウンレギュレーションを起こしている証拠。相手が優しく丁寧に教えてくれていても「私にはそのやり方はできない」と言い訳をしてしまうのは、見捨てられ不安脳が過活動を起こしているから。
隣の家の服部さんのところで書道を習わされた時も「書き順はこうですよ!」と教わったのに「その書き順は学校で習っていないからできない」と自分が勝手に書き順をかけてしまいます。そして先生からダメ出しをされると見捨てられ不安脳が活発になって「もう書道はやりたくない」となるのは「攻撃された!」と私は認識してしまうから。相手が私に対して「よかれ」と思って言ってくれることも、私の見捨てられ不安脳が活発になっているから、全て社会的刺激になってしまって「攻撃される!」と身構えるから、次の瞬間にすぐに「でも」とか「だって」という言い訳が出てきてしまう。すると、相手がイラッとするので、それを見捨てられ不安脳は敏感に受け取って「やっぱりこの人は私のことを嫌っている!」となって、さらに言い訳をしてしまって関係を破壊してしまっていました。
今考えれば、イラっとした相手から嫌われるのが怖かったら、相手が言った通りに「はい!」っていい返事をして従えばいいのに、と思うのですがそれがなぜかできないで、自分のオリジナルのやり方になってしまう。その仕組みが「見捨てられ不安」で「孤独」を感じたら「期待脳」が働いてしまって「相手はどんな私でも受け止めてくれるはず」となってしまったり「教えてくれるあの人よりも自分の方がすごいんじゃ!」と自分のオリジナルのやり方を貫いてしまうから。
ピアノも勉強も運動もできない私なのに、できないことへの言い訳は達人級だったのは、私のとって「教わる」といことが社会的刺激で「攻撃されている」という認識になっていたから。そして、みんなと同じことができなければできないほど「相手から見捨てられる」と孤独になるから、期待脳で「ダメな私を相手は受け止めてくれるはず」と期待したり「自分は誰よりも優れているんじゃ〜!」と自分のオリジナルのやり方を相手の前に披露して呆れられていた。
私は「人のことを尊敬できない」とか「尊敬できる人が誰もいない」と思っていて「なんで周りの子たちは尊敬できる人がいるのに自分だけ」と思っていました。でも、こうして考えてみると「教わる」ということも「上から下」という立場で「攻撃される」と自動的に脳が反応してしまうから、尊敬できる人なんてできるわけがないんですよね。
どんな人に対して常に私の頭の中ではダメ出しが浮かんでしまいます。「この人すごいな〜!」と最初のうちは思える人もいるんです。でも、どんどん私の頭の中で相手に対するダメ出しが湧いてきてしまって「この人は尊敬できない」となってしまうのは、私の見捨てられ不安脳のGABA受容体がダウンレギュレーションを起こしているから。だから、誰かと友達になって私は「あぁ!この人といつか関係が壊れてしまうんだな」と知り合った当初から最後が見えてしまう。それはこれまでも、どんどん相手の嫌な部分が目についてしまって「この人は尊敬できない」ってなって関係を壊してしまっていたから。
人の嫌なところばかり目がいってしまう私って性格が悪い?と思っていたけど、この脳の仕組みを知ってみると「な〜んだ!全てが社会的刺激になって攻撃に構えているからダメ出しや言い訳が出てきちゃうんだ!」って見えてくるから、自分を責めなくなります。不思議なんですけど、自分を責めなくなると、自然と人へのダメ出しや言い訳がなくなってくる。
人へのダメ出しや言い訳がなくなると、さらに自分へのダメ出しが少なくなっていき「そこに美しさを見出す」が自然とできるようになってきます。