私は今日も、昨日の私を手放した
催眠のお師匠さんの催眠療法によって、「ダメな私」がライバルになって「それまで越えられなかった壁が簡単に越えられるようになった!」ということが一番わかりやすかったのが、「ダサいものが捨てられるようになった!」ですね。
(「現在の私」+「理想的な私」)÷2=「ダサいジャージを着てゴロゴロしている私」が出てきたのですが、実際にクローゼットの中には学生時代からずっと持っているダサいジャージやジャンバーが捨てられずにゴロゴロしていた。それを「これダサい!」って躊躇なくポイポイ捨てることができた時に「あれ?私の中で何かが変わっている!」ってなったんですよね。
それまでは「もったいない」と思って捨てられなかった。「ダサい服だけど家で着ればいいじゃない!」とか「人は中身が勝負なんだから外見なんて気にしていたらしょうがない」と私の中で思っていて美しさを探求することなんて二の次、三の次で「全ては実用性だ」と捨てないことの言い訳にしていました。
でも、ちょっと私の心の中を深掘りしてみると、「貧乏な両親にお金を出してもらったものだから捨てられない」とか「あの人からもらったものだから、申し訳なくて捨てられない」などと思っていて、見事に「見捨てられ不安脳(外側手綱核)」が活発になって「捨ててしまったら、あの人たちから見捨てられる」となって「孤独」を感じてしまう。
催眠のお師匠さんにインストールしてもらった「ダメな私」の変数があると、躊躇なく捨てられるようになったのは「ダメな私」の興奮に対して「こいつだったら越えられる」というGABAに代わる抑制がかかって「理想的な私」に自然と向かうことができるようになったから。
「ダメな私」がライバルになると「見捨てられ不安脳」に抑制がかかるようになって、見捨てられ不安脳が興奮しなくなるから「ポイポイとダサいものを捨てることができる!」ってなっていったんです。
もっと面白かったのは「私は本を書きたい」と思っていたけど、全然筆が進まなかったのは「これをあの人に読まれたらどう思われるかな」と推測してしまって、「絶対に嫌われる」と見捨てられ不安脳が活発になってしまっていたから。
お師匠さんの催眠で「ダメな私」の変数が割り出せるようになったら、「ダメな私を超える」ができるようになるから「ダメな私を捨てる」という意味で「文章に書き出して捨てる」ということができちゃう。
私は寮のシャワーですら自分の体を他の人に見られたら恥ずかしい、と思ってしまって、人が起きている時間には入ることができませんでした。もちろん、銭湯なんてとんでもない!という感じだったのは、見捨てられ不安脳の抑制が全く効いていなかったから。
そんな私が自分の過去を丸裸にして本に書いちゃえ!とできるようになったのは、まさに見捨てられ不安脳に抑制が働くようになったから(全てナラティブで書いています)。
文章に書き出した時点でライバルである「ダメな自分」を軽く越えて、理想の自分へと歩み出している。
人がその文章を読んでとやかく言われた時に「が〜ん!」と一時的にはショックを受けたりします。そりゃ、人間ですから、見捨てられ不安脳はちゃんと反応して「ムカつく!」ってなったりするけど、それで筆が止まったりしないのは「私のライバルは私」だから。
ちゃんと見捨てられ不安脳に抑制が働いて、「孤独」から自分を理想化しないで淡々と目の前のことを続けることができるようになっていた。
確かにお師匠さんには「本が書けるように催眠をかけてください」ってお願いしたけど、まさか、こんな風になるとは想像すらできませんでした。
「ダメな私」を書いて越えて捨てていくことで、理想的な私の世界が見えてきて、「そこに美しさを見出す」でどんどん美しい世界が見えてくる。それをこのようにして文章にしていくのがものすごく楽しくなっている。確かに、そんな注文を私はお師匠さんにしていて、その通りになってしまっているからあの方は恐ろしい。
「過去を書いて捨てる」とここでは表現しているけど、書き出してそれが残っているわけだから「捨てる」というのは、本当に面白い。まさに、これが「宝を天に積み上げる」ということなのかもしれません。自分の心の中から解放して、捨て去ることで、そこに美しさを見出すことができる。
すると、さらなる美しい世界が見えてくる。お師匠さんが見ていらっしゃった世界はこんなだったのかな?と答え合わせがしたくなる私がここにいます。そんな自分ですら私のライバル。