私は「なんで私だけこんな不幸な目に遭うんだろう!」というのが口癖になっています。

その口癖を言った時に、周りの人たちがキラキラと輝いていて楽しそうに見えてしまう。そんなキラキラしている人たちと私を比べて「なんて私は不幸なんだろう!」と不幸感でいっぱいになる訳です。そして、私にはさらに不幸が降り注いでくる、という感じになる。

 

「私ばっかり」とか「私だけこんなに不幸」など思った時に、孤独脳(背側縫線核)が活発になります。

すると期待脳(腹側被蓋野)がそれに刺激されて活発になるから、「私以外の人たちがキラキラしている!」というように見えてしまうんですよね(全てナラティブで書いています)。

そして期待脳が活発になると見捨てられ不安脳(外側手綱核)も活発になり、社会的刺激にものすごく過敏になって「どんどん不幸な状況が襲ってくる!」という認識になっていく。

 

私は、YouTubeを見ていて「このユーチューバは不器用な私と比べてなんて幸せそうなんだろう」って私の置かれている不幸な状況と比べてしまいます。

こんな風に比べた時点で「どうして私ばかり不幸なの!」と孤独脳が活発になってしまうと、相手の置かれている環境がものすごく恵まれているように思えてしまうのが期待脳のなせる技。

これが「隣の芝は青く見える」の脳的な仕組みですね。私に例えると「こんなに頑張って芝を育てているのに、何も努力していないお隣さんの芝は青々と育って、私のところは努力が実らず穴だらけ」となってしまう。

 

相手と比較した時点で孤独脳が活発になるから、それに刺激されて期待脳が「相手はキラキラで悠々自適」という幻想を見せる。

だから、私は「それに比べて私はどんだけ不幸なんだ!」と嘆き悲しめば見捨てられ不安脳がさらに活発になるから、「次から次へと不幸が訪れる」となって、ますます私は孤独で周りがキラキラと輝いて見えて、不幸の沼にハマってしまう訳です。

 

だから「ライバルは私」という言葉がものすごく効果的なんです。

なぜなら、私は人と比較する癖があったから。まあ、子供の頃から親に「あそこの〇〇ちゃんと比べてあなたはどうして勉強をしないの!」と常に比較されてきたから、というのも影響しています。でも、私は「人と比較して自分の現状を客観的に知ることができる」と勘違いしていました。比較対象があった方が、自分のことを客観視できるから人と比較する、とずっと信じて生きてきた。

脳科学が進んで仕組みがわかってくると、「比較すると孤独脳から期待脳が活発になって、他人も自分の状況も客観的に見えなくなるんだ!」ということがわかってみると、私の常識が変わっていくんですよね。

 

そう、小さい頃から私は「人と比較して自分のダメさを自覚した方がいい」とずっと信じてきました。

その方が私は思い上がることもなく、謙虚に正しく生きられる、って思っていた。

でも、実際は、人と比較して期待脳で他人のことが理想化されてしまって、私は「みんなダメな私のことを馬鹿にしている!」と被害的になり心の中はずっと真っ暗だった。そして「ダメな自分を自覚して謙虚にいる方が学習能力が高くなる」って思っていたけど、「自己肯定感が下がってちっともやる気にならずに何も成し遂げられない」ってなっていたのよね。

私が「謙虚」だと思っていたのは、ただの「カマトト」であって私が失敗した時の隠れ蓑みたいになっていたんです。「私が本気を出せば本当はすごいんだぞ!」で何十年も時が過ぎてしまったな〜。

「私は何もできないんです」って謙虚さを演じることで、私は推測脳(側頭頭頂接合部)を使ってしまうから、「周りの人の気持ちを考えるのが止まらない!」となってしまいます。人の気持ちを考えれば期待脳が働いて「隣の芝は青い」という錯覚が起きるから、「自分だけがダメ人間」という孤独な現実が見えてしまう。その孤独な現実から私は逃れるために白昼夢の世界に入って浦島太郎状態になって時間があっという間に過ぎてしまった。

 

面白いのは、「私はこんなことで時間を無駄にしてしまった」という時にも、私は周りの人と比較してしまっていること。「周りの人たちは時間を有効に使っている」という幻想が孤独脳に刺激された期待脳によって生み出されてしまうから。

そんな時に「ライバルは私」と頭の中で唱えてみると、人との比較と孤独でうるさかった私の脳が静かになり、そして、永遠の時の流れの中に一本の光る道が見えてくるんです。

 

「ライバルは私」を唱えた時に、私は、そのどこまでも続く光の道を自分の足で歩んでみたい、と思うんです。一歩一歩確実に。