どうして美しさを探求するのかというと、美しさを探求すればするほど本来の私に戻っていけるから。多分、これを一般の人が聞いたら「あなたはナルシストですよね!」と言われてしまいます。

ここでのナルシストって「独りよがりの勘違い野郎」という意味でしょうね。あなたは自分が美しいと思い込んでいるけど、周りはそんな一人よがりのあなたを美しいとは思っていなくて、痛々しいと思っている、という感じ。

この思考パターンって「他人の中に醜さを見出す」ということになる。そして私は「美しさを見出す」と思った時に、周りの人から「ナルシストの勘違い野郎と思われているんだろうな」というように、いつの間にか醜さを探求してしまいます。

 

そう、他人の気持ちを考えたり、推測すれば「醜さを探究する」ということになってしまって、私は脳のエネルギーを消耗して「自分のために行動するエネルギーが枯渇する」ということをずっとやってきました。周りの人が私のことをどう思うのか?ということを想像すれば、人の醜さが浮き彫りになり、それを考えることが止まらなくなって、どんどんエネルギーを消耗して自分の人生を生きられなくなる。

 

「そこに美しさを見出す」って思った時に、私は、自然と人の気持ちを考えなくなる。すると私は、私の目の前にある様々なものに美しさを見出すことができるようになり、さらに美しさを探求したくなってくるわけです。

そう、美しさを探求している時には、私の脳内のエネルギーの消耗は起きなくなり、どんどん美しさを探究するためのエネルギーに満ち満ちていく。

 

「美しい」でGABAが適切に働くようになり、グルタミン酸で興奮した神経を鎮めてくれます(ナラティブで書いています)。

私の場合、子供時代にGABA受容体がダウンレギュレーションを起こしてしまって「右折 or 左折」の二つの興奮性ニューロンが脳内で拮抗して、興奮が鎮まらないので脳内で炎症が起きてしまって、認知機能が低下し「これって本来の自分の知能じゃない!」という毎日を送ってきたわけです。

そうなのよね、私の場合、脳内で炎症が起きていたから、醜いことにしか注目が向けられなくなっていた。「美しい」に注目することで、GABAが働き、脳の興奮が静まって炎症から解放されることで、醜いものに注目する人生から、美しいものに注目する人生へとシフトします。さらに、脳内の炎症が減るので、認知機能が本来の自分の状態へと戻るから、さらに自分の中に美しさを見出すことができるようになる。

 

そんな風に美しさを見出すことをしていると、一つのことに気づきます。それは「美しさって人と共有しなくてもいいんだ!」ということ。

認知機能が低下している時にはわからなかったけど、人それぞれ美しさを感じる基準が違っていていい。

以前の私は、自分が感じた美しさは、世間一般の人が美しいと感じなければ「美しい」と認められない、と思っていたんですよね。でも、知能の高低差でみんな感じる「美しい」は違っていていい。そして、私が「美しい」と思ったことを知能の高低差がある人に認めてもらう必要はない。

 

なぜなら「美しい」は私にとって薬のようなもの。幼少期に壊れてしまった私の脳の状態を本来の姿に戻してくれる大切なお薬。「美しい」を取り入れることで、私の脳の興奮は鎮まり、さらに炎症でいっぱいだった私の脳をクリアにしてくれる。そして、エネルギーの消耗が激しく枯渇したエネルギーを「美しい」が満たしてくれて、さらなる美しさを探究できるようにしてくれます。

「美しい」がみんなにとっての万能薬じゃなくていいし、そもそも私が必要としている「美しさ」という薬は多くの人には必要なかったりするわけです。

 

医者を必要とする人は病人で、「美しさ」を必要とする私も病人である、と認めてみると面白い。

無意識さんが与えてくれた無敵の処方箋で私は、本来の姿に戻って行きます。「美しい」という処方を口にすることで、脳の炎症は消えていき、私が求めている美しい選択肢を迷うことなく自然と選び取ることができるようになり、後悔や罪悪感に塗れたうつ的な世界から自由になっていきます。

 

四六時中、人の気持ちを考えるのが止まらなかった私が無意識が処方してくれた「美しい」という薬でいつの間にか考えなくなくなり、頭の中に静けさが訪れます。

 

そして私は、気楽に無意識さんと共に「美しい」を探究する旅に出たくなるんです。

なんの気負いもなしに、自由にそして心豊かに、無意識さんと共に私の中の「美しい」を見出す旅へと出かけていきます。あんなに苦しかった見捨てられる不安や孤独感、そして人への期待が、無意識さんと共に旅を続けていると、いつの間にか美化されていき、懐かしいものへと変わっていくんです。