心安らかに生きる(新しいシリーズです)
今朝も外に出て、体感温度1度でも「さあ、走らなきゃ!」と思いながら私は走り出します。走っている途中で「なんでこんな寒い中、無理して走っているんだろう?」と私は考えています(アホだ〜!)。
私の走る理由は簡単で「ご飯を美味しく食べたいから走る」ですね。
「運動しなくてもご飯は美味しく食べられるでしょ!」というツッコミが私の頭の中に響いてくるのですが、運動をしなきゃどんどんデラックスボディーになってしまって病気になる、という恐怖が私の中にあるわけです。
だから、私が朝走っているのは「楽しい!」とか「気持ちがいい!」、「今日の食事が楽しみ!」ではなくて「病気になるのが怖い!」という“恐怖”からなので心は穏やかではない。
周りの人からは「毎日運動をしていて健康的ですね!」と言われるけど、私の中では「運動をしなきゃ確実に病気になって惨めな思いをする」という恐怖で走っているから、全然爽やかな気分じゃない。
そんな私は走りながら「心安らかに生きるにはどうしたらいい?」と考え始めます。
寒い中、病気になる恐怖を感じながら走るんじゃなくて「心安らかに走る」ってできるのかな?と思うわけです。
そうなのよね!「病気になるのが怖い」と思いながら走り出すけど「手が冷たくて痛いじゃない!」とか「以前のように早く走れなくなっている!なんで!」などと文句ばかり言っているおじいさんのように私の頭の中では不平不満ばかり渦巻いている。
もっと私は心安らかに生きることができるんじゃないの?と思った時に「あれ?ちょっと私の頭の中が静かになった!」と不思議なことが起きます。
そして、夏の日にプールに行った時に「うわ〜!こんなに人がいっぱいいたら、落ち着いて楽しめない!」と思っていた私が、レジャーシートを敷いて、そこに横になって一面に広がる青空を見た時に「周りの人のことが一切気にならなくなって心が安らかになった」という体験が突然浮かんできました。
そんな時に「あれ?もしかして、心安らかに生きるってそんなに難しくないのかも!」と思えてきたんです。
先に結論から書いてしまうと「プールでは周りの人の視線を気にしていたから心穏やかではいられない」となっていたわけです。
空を見上げた時、私は周りの人の視線を気にする必要が一切なくなった。周りの人の視線を気にする必要がなくなった時に「心が安らかになった」となったのです。
私が「病気が怖い!」と思っている時には、ここにはいないはずの母親の視線を感じているんです。母親だったら、こんな私を見て「太っていて醜いから、父親と同じような病気になって惨めな生活になる」という目で見るだろうな、と私は「母親」というものを意識しなくても自動的にその視線から飛んでくる思考を想像してしまう。
私は「これは私自身が恐れていること」と思っているけど、この思考の向こうには母親の視線が存在しているわけです。
私が走っていて「手が冷たい」とか「以前のように早く走れない」、「息が苦しい」などと文句ばかりで頭がいっぱいになっているのも、母親の視線が影響しています。母親が「あんたはいつも文句ばかり言ってちっとも感謝しないからどんどん不幸になる」と思っているのが伝わってくる。
どうして、こんなふうに母親の視線を感じながら心騒がしく生きているのかというと、私の自己肯定感が低いから。自己肯定感が低いって何?と言われたら「みんなは私よりも優れている」と私は自動的に思ってしまうこと。
すると側頭頭頂接合部(推測脳)が勝手に働いてしまって、周りの人の気持ちを自分の経験則で勝手に想像してしまう。
私の経験則で最も印象づけられているものが母親からのダメ出しになるから、周りの視線を感じて私の推測脳が働いた時には「母親からのダメ出しの嵐」になってしまうわけです。
人がめちゃくちゃいるプールなんていってしまったら、人の視線がいっぱい!になるでしょ。だから「母親からのダメ出しがいっぱい!」になって「なんで、みんなが汗水垂らして働いている時にあんたは遊んでいるの!」とか「気持ち悪い体型!」などのダメ出しが浮かんできて「ちっとも楽しめない!」ってなるわけです。
そんな時に、お空を見上げてみると、人の視線が気にならなくなり推測脳がオフになって母親のダメ出しから解放されて「心安らかになる〜!」っていう体験ができるわけです。
だから「心穏やかにするために宇宙に注目しましょう!」なんていう人がいるのよね。
推測脳がオフになれば、相手が人じゃなくて「空」でも「宇宙」でもOKになるわけ。
イエスが言っていた「空の鳥を見なさい」というのも、こんな仕組みがあったんだ、と思ってみると面白い。