人の視線を感じなければ、推測脳が働かなくなるから心安らかになれる。もしかして、だから、一人キャンプというのがあるのかもしれない。一人でテントを張って、焚き火を眺めていたら「人の視線フリー」になれるから「心安らかになる〜」ってなれる(最近は熊さんがいるから、心安らかに、はちょっと難しいか!)。


自己肯定感が低ければ低いほど、人の視線で推測脳が働く、となってしまうから「人の視線が怖い!」ってものすごい人の視線を意識しちゃうのよね。だから、人の視線がない山奥が望ましいのかも。私が家の中で引きこもっていた時は「近所の人の視線が気になる!」ってなっていたから心安らかではありませんでした。私が何もしないで家に引きこもっている、と思っている時点で、周り近所の人の視線を気にしちゃって、どんどん自己肯定感が下がるから、ますます推測脳が活発になる、となっていた。


逆に考えてみると、こんなに人の視線に影響されるんだったら、この視線って有効に使えるのかも。私が人前で発表する時に「人の視線を感じて推測脳がバリバリ働いて緊張しまう」となったときに、見事に「全然私が思った通りにできなくなった」と失敗してしまう。人の視線には人を緊張させて失敗させる力があるのでは?と思ったりする。でも、私がいろんな視線を相手に送っても「あれ?みんな全然失敗しないんですけど!」となるから、やっぱり自己肯定感が関係するのよね。私の自己肯定感が相手よりも低いから、相手の推測脳は働かなくて、前外側前頭葉(共感脳)が働いて「人前でわかりやすくプレゼンテーションができる」ってなったりする(ナラティブで書いています)。私の低い自己肯定感の視線は、相手の自己肯定感を高めるために役立ってしまう(あはは〜!)。


「私の視線」ということを振り返った時に「あれ?ジョギングする時に私が視線を送る相手によって私のジョギングのスピードが変わる」ということが浮かんできた。まあ、いつもは「寒い」とか「暑い」や「苦しい」とか「人がうざい」など不平不満で頭がいっぱいになりながら走っているのですが、私を抜かしていくあるランナーの背中に私の視線を向けた時に「あれ?走るペースが上がってきた!」となって、抜かされたランナーと同じペースで走ることができる。私の走るペースが上がっただけじゃなくて「走っていて気持ちがいい!」っていうことを感じ始めるから面白い。それまで不平不満しか頭に浮かんでこなかったのに。そのランナーに視線を向けただけで、その不平不満がいつの間にか消えてしまって「楽しい!」とか「もっと走れるかも!」ってなるから不思議。


「どうして私の視線を相手に向けただけでそんな気分になった?」と考えてみると楽しくなってきます。もしかしたら、相手の自己肯定感が私よりも低いから、私の自己肯定感が相手の低さで底上げされて、推測脳じゃなく共感脳が働いて「走っていて楽しい!」って感じたのかも。でも、他のスポーツをやっている時に、これと同じ体験をしたことがあるんですけど、私が相手に視線を送った時に私のパフォーマンスが上がって「楽しい!」って感じる人って「他の人よりもめちゃくちゃ上手いんですけど!」となっているから「自己肯定感が低い?」とは考えにくいかも。


ジョギングのランナーに関しては、視線を向けて一緒に走っていて、二人のペースがどんどん上がっていって「楽しい!」と感じてその人と別れる時に、相手から「どうもありがとうございました」と言われたりする。自己肯定感が低い人だったら「うざい!」とか「ムカつく!」など嫌悪感でいっぱいになるはずだから、やっぱり自己肯定感が高い可能性が出てくる。


そんなことを考えていると「あれ?私が自己肯定感が高いと思っていた人は、逆に自己肯定感が低かったのかも!」と思えてきた。外に出た瞬間から、私の頭の中が不平不満だらけになるのは、確かに推測脳が働いているからなんですけど、それは「みんなよりも私の自己肯定感が低いから」と思っていたけど、もしかして、自己肯定感が低い周りの人に影響を受けて私の自己肯定感が低くなって、それで推測脳が働いて、さらに私の自己肯定感が下がっている?と思ったらちょっと頭がスッキリしてきます。


キャンプ場で「私よりも背丈が高い草むらで周りがちっとも見渡せない」と思っていたら、自分が這いつくばって、草むらに顔を突っ込んでいただけ。「あれ?みんなの自己肯定感は低いのかも?」と気がついて立ち上がってみたら、そこはひらけた草原のキャンプ場だった。


そんなことに気づいてみると、もしかして、山奥のキャンプ場に一人で心を安らかにするために行く必要がないのかもしれない。綺麗に社会の中で刈り込まれた草原の中で、目の前に燃え盛る焚き火を眺めながら、心が安らかになっていく。